2017年10月20日

『万葉集』を訓(よ)む(その1209)

 今回は、山上憶良作の「沈痾(ちんあ)自哀文(じあいぶん)」の第五段目を訓む。
 第五段の原文は次の通り。なお、写本で二行書きで書かれている注の部分は、ここでは[一行]で記す。

 帛公略説曰 伏思自勵以斯長生 々可貪也死可畏也 天地之大徳曰生 故死人不及生鼠 雖為王侯 一日絶氣積金如山 誰為富哉 威勢如海 誰為貴哉 遊仙窟曰 九泉下人 一錢不直 孔子曰 受之於天 不可變易者形也 受之於命 不可請益者壽也[見鬼谷先生相人書]  故知生之極貴命之至重 欲言々窮 何以言之欲慮々絶 何由慮之

 この訓読文を記すと、次の通り。

 帛公略説(はくこうりやくせつ)に曰(いは)く、「伏(ふ)して思(おも)ひ自(みづか)ら勵(はげ)むに斯(こ)の長生(ちやうせい)を以(もち)てす。生(せい)は貪(むさぼ)る可(べ)し、死(し)は畏(おそ)る可(べ)し」と。天地(てんち)の大徳(だいとく)を生(せい)と曰(い)ふ。故(ゆゑ)に死(し)にたる人(ひと)は生(い)ける鼠(ねずみ)に及(し)かず。王侯(わうこう)たりと雖(いへど)も、一日(ひとひ)氣(いき)を絶(た)たば、積(つ)める金(くがね)山(やま)の如(ごと)くありとも、誰(たれ)か富(と)めりと為(な)さむや。威勢(いきほひ)海(うみ)の如(ごと)くありとも、誰(たれ)か貴(たふと)しと為(な)さむや。遊仙窟(いうせんくつ)に曰(いは)く、「九泉下(きうせんか)の人(ひと)は、一錢(せん)にだに直(あたひ)せず」と。孔子(こうし)曰(いは)く、「之(これ)を天(てん)に受(う)けて、變(うつ)し易(か)ふ可(べ)からぬものは形(かたち)也(なり)、之(これ)を命(めい)に受(う)けて、請(こ)ひ益(くは)ふ可(べ)からぬものは壽(いのち)也(なり)」と。[鬼谷先生(きこくせんせい)の相人書(さうにんしよ)に見(み)ゆ。] 故(ゆゑ)に生(せい)の極(きは)めて貴(たふと)く、命(いのち)の至(いた)りて重(おも)きを知(し)る。言(い)はむと欲(おも)へば、言(こと)窮(きは)まる。何(なに)を以(もち)てか言(い)はむ。慮(おもひはか)らむと欲(おも)へば、慮(おもひはか)り絶(た)ゆ。何(なに)に由(よ)りてか之(これ)を慮(おもひはか)らむ。

「帛公略説(はくこうりやくせつ)」は、「帛公は、抱朴子や神仙伝に見える帛和(字は、仲理)という道士。その著か。神仙・養生などを要約して説いた俗書であろうという。」(阿蘇『萬葉集全歌講義』より)。
「天地(てんち)の大徳(だいとく)を生(せい)と曰(い)ふ」は、「抱朴子勤求篇冒頭にも引く易(えき)(繋辞(けいじ)下)のことば。大徳は、天地造化のはたらきの意。」(井村『萬葉集全注』より)。
「死(し)にたる人(ひと)は生(い)ける鼠(ねずみ)に及(し)かず」は、「抱朴子勤求篇(太平御覧所引)に『死王生鼠ナルコトヲ楽(ねが)フ』とある。死んだ王よりも生きている鼠の方がまだましという譬喩。」(井村『萬葉集全注』より)。
「遊仙窟(いうせんくつ)」は、「初唐の張文成の作。作者が河源に使して神仙の窟に迷い込み、五嫂・十娘の両仙女に会い、宴を楽しみ、十娘と結ばれるという内容。妓楼妓館の遊楽を美化したものともいわれ、当時流行し、新羅や日本の使者は喜んで持ち帰ったという。中国では早く滅んだが、日本では永く愛読され影響を受けた。その内容が喜ばれると同時に、それが美辞麗句の宝庫で用語辞典として貴重であったから、といわれる。」(阿蘇『萬葉集全歌講義』より)。
「九泉下(きうせんか)の人(ひと)」は、「死者。九泉は、大地の下、地の底、の意。」(阿蘇『萬葉集全歌講義』より)。
「孔子(こうし)」については、よく知られているので、蛇足になると思うが、知識の整理として『世界大百科全書』の記述を引用しておこう。

 中国,春秋時代の思想家。名を丘,字を仲尼といい,魯の陬(すう)(山東省)の生れ。その73歳の生涯は,周王朝の支配体制がくずれ,諸侯の対立抗争する春秋末の動乱期に過ごされている。当時,魯国でも君主の威権は地に落ち,季孫氏・孟孫氏・叔孫氏という3公族が政治を専断していた。さらに3公族のうちもっとも強力な季孫氏では,家臣の陽虎が権勢をふるい,下剋上の様相さえあった。
 幼いとき父に死別した孔子は,貧困と苦難のなかに育った。青年時代,季孫氏に仕えて委吏(倉庫番),司職(家畜係)となったことがある。きわめて低い地位である。のち魯の定公に召されて中都(邑の名)の宰となり,やがて司空(農事の長官),大司寇(だいしこう)(司法の長官)に累進し,55歳のとき宰相の職務をも代行して,その治績は大いに見るべきものがあったという。だが3公族の横暴に義憤をいだき,改革をはかって失敗し,やむなく職を退いて亡命の旅にでた。衛,陳,宋,蔡,楚を漂泊すること14年,諸侯に遊説してまわったが,その徳治主義の理想を受けいれるには,諸国の政情はあまりに厳しく急であった。つぶさに辛酸をなめ,3度まで生命の危険にもさらされている。現実政治への強い執着にもかかわらず,けっきょく68歳のとき宿望むなしく祖国の魯に舞いもどり,以後は世を終えるまで,弟子の教育と研究に専念した。
 もっとも弟子の教育,学園の形成は,すでに壮年時代から始められていた。だから諸国の歴遊にも,子路や顔回ら何人かの門弟がつねに行をともにしている。しかし,帰国してから没するまでの数年間は,まったく一個の民間教育家として余生を送った。〈弟子三千人,六芸に通ずる者七十二人〉と伝えられ,学問の普及に果たした役割には,はかり知れないものがある。
 以上は,司馬遷の《史記》など主として前漢の初めの資料によった叙述で,いわば伝統的な孔子伝である。孔子が没してから《史記》の成立までには,約380年の歳月が過ぎており,この間に孔子の権威はしだいに上昇し,かなり大幅な潤色が加えられたもののようである。たとえば《史記》には,孔子が〈書伝・礼記(らいき)を叙し,詩を刪(けず)り,楽(がく)を正し,易の十翼を序し,春秋を作った〉とあり,六経(りくけい)をことごとく孔子の編集に帰している。だが《詩経》と《書経》に孔子が整理を加えたことは肯定できるものの,他の四経との関係は疑問とされる。また,魯の宮廷年代記ともいうべき《春秋》には,孔子の在世中,魯国の政権をにぎった季孫氏および孟孫氏や叔孫氏の名が頻出するのに,孔子の名は一度も現れない。孔子が大司寇となり宰相の職務を代行したのが事実ならば,当然その名とその活躍が記録されたはずである。《論語》にも孔子が高位に登って敏腕をふるった記事は見あたらない。《論語》に見えるのは,志を得ない,真摯な学匠としての孔子像である。
 しかし,のちに学匠としての偉大さのうえに,世俗的な官位をも高められるようになった孔子は,前漢の初めに儒教が国教となった後,その権威はさらに飛躍する。とくに前漢の末から後漢になると,緯書と呼ばれる一群の書の出現によって,孔子の神格化が進められ,理性的な尊敬の対象から,宗教的な信仰の対象へと転じたことさえあった。孔子の人柄や思想を伝える,もっとも確実な資料は《論語》である。《論語》は孔子とその門人たちの言行や師弟間の問答などを集めたもので,約500の章から成り,使われている漢字の種類はぜんぶで1520字にすぎず,他の古典に比べて平易である。中国の歴史を通じて《論語》ほど広く読まれた書物はない。儒家の経典として尊重されたためでもあるが,《論語》自体に潜む魅力による点も少なくない。そこには現代からみて批判さるべき点もあるけれども,人間肯定の精神に即した人生の英知が,きわめて簡潔な表現で語られている。
 孔子が理想の人物として思慕したのは,周の礼楽文化を定め,周王朝の基礎をきずいた,名宰相の周公である。直接に強い影響をうけたのは,孔子が30歳のころに没した鄭の子産 ー 人間中心の立場,合理主義を力強く宣言した博学の政治家であった ー とみられている。《論語》によるかぎり,孔子は常識人であり,凡人であったのではないか,と思われる。偉大な哲学者には常識を超えて,常識のかなたにある真理を発見した者が多いが,孔子は常識を超えるかわりに,常識の下に隠されている真理を発掘しようとした。偉大な凡人なのであろう。
 常識人の孔子は超越的な神について語ることなく,また永遠の問題にも冷淡であった。その関心は現実の人生にいかに処すべきかにあり,理想は高邁に走らず,卑近な現実のなかに求めた。人間相互の愛情を重んじて道徳政治を説き,後世,儒家の祖と仰がれる。

「鬼谷先生(きこくせんせい)の相人書(さうにんしよ)」は、「鬼谷先生は、鬼谷子。戦国時代(前四〇三〜前二二一)の論客蘇秦(前三一七没)・張儀(前三〇九没)の師といわれるが、姓名不詳。相人書は、人相判断の書であろう。」(阿蘇『萬葉集全歌講義』より)。

 以上の口訳を記すと、次の通り。

 帛公略説に、「慎んで思い自ら努力するのは、長生きのためだ。生は貪欲に求めよ、死は恐れよ。」という。天地造化の大きな働きを生と言う。だから死人は生きている鼠にも劣るのだ。たとえ王侯であっても、ひとたび息が絶えれば、積み上げた金が山のようにあっても、誰が金持ちだと思おうか。海のように広大な威勢をふるっていたとしても、誰が尊ぼうか。遊仙窟に「死人は一銭の値打ちもない」とある。孔子は、「天から授かって変更できないものは姿・形である。運命として授かって増すことができないものは寿命である。」と言った。 [鬼谷先生の相人書に見える。] それ故、生が極めて尊く、命が甚だ大切だということがわかる。言葉で言い表そうとしても言葉が見つからず、言いようがない。そのことについて考えようとしても考えられない。どう考えたらよいのか。

 以下、第六段は次回に続く。 
ラベル:万葉集
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2017年10月18日

『万葉集』を訓(よ)む(その1208)

 今回は、山上憶良作の「沈痾(ちんあ)自哀文(じあいぶん)」の第四段目を訓む。
 第四段の原文は次の通り。なお、第四段は、全て注の部分にあたり、写本では二行書きで書かれているが、ここでは[一行]で記す。

[志恠記云 廣平前大守北海徐玄方之女年十八歳而死 其霊謂馮馬子曰 案我生録當壽八十餘歳 今為妖鬼所枉【殺】已經四年 此遇馮馬子 乃得更活是也 内教云瞻浮州人壽百二十歳謹案此數非必不得過此 故壽延經云 有比丘名曰難逹 臨命終時詣佛請壽則延十八年 但善為者天地相畢 其壽夭者業報所招 随其脩短而為半也未盈斯笇而遄死去 故曰未半也 任徴君曰 病従口入 故君子節其飲食由斯言之 人遇疾病不必妖鬼 夫醫方諸家之廣説 飲食禁忌之厚訓知易行難之鈍情 三者盈目満耳由来久矣 抱朴子曰 人但不知其當死之日故不憂耳 若誠知刖劓可得延期者 必将為之 以此而觀 乃知我病盖斯飲食所招而不能自治者乎]
 
 注:【殺】とあるのは、写本では、パソコンにない【敏の「母」の部分が「ヨ」の下に「一」】という字であるが、「殺」の俗字なので【殺】で代用した。
 この訓読文を記すと、次の通り。

 [志恠記(しくわいき)に云(いは)く、「廣平(くわうへい)の前(さき)の大守(たいしゆ)、北海(ほくかい)の徐玄方(じよげんぱう)の女(むすめ)、年(とし)十八歳(さい)にして死(し)す。其(そ)の霊(れい)、馮馬子(ひようまし)に謂(い)ひて曰(いは)く、『我(わ)が生録(せいろく)を案(かむが)ふるに當(まさ)に壽(よはひ)八十餘歳(よさい)なるべし。今(いま)妖鬼(えうき)の為(ため)に枉(よこしま)に殺(ころ)され、已(すで)に四年(ねん)を經(へ)たり。』と。此(ここ)に馮馬子(ひようまし)に遇(あ)ひて、乃(すなは)ち更(さら)に活(い)くるを得(え)たり」といふは是(これ)也(なり)。内教(ないけう)に云(いは)く、「瞻浮州(せんぶしう)の人(ひと)は、壽(よはひ)百二十歳(さい)」と。謹(つつし)みて此(こ)の數(かず)を案(かむが)ふるに必(かなら)ずしも此(これ)を過(す)ぐるを得(え)ざるに非(あら)ず。故(ゆゑ)に壽延經(じゆえんきやう)に云(いは)く、「比丘(びく)有(あ)り、名(な)を難逹(なんだつ)と曰(い)ふ。命(いのち)終(をは)る時(とき)に臨(のぞ)みて、佛(ほとけ)に詣(まう)でて壽(いのち)を請(こ)ひ、則(すなは)ち十八年(ねん)を延(の)べたり」といふ。但(ただ)、善(よ)く為(をさ)むる者(ひと)は、天地(てんち)と相(あ)ひ畢(を)はる。其(そ)の壽夭(じゆえう)は業報(ごふほう)の招(を)く所(ところ)にして、其(そ)の脩短(しうたん)に随(したが)ひて半(なかば)と為(な)る。未(いま)だ斯(こ)の笇(さん)に盈(み)たずして遄(すみやか)に死去(しきよ)す。故(ゆゑ)に未(いま)だ半(なかば)ならずと曰(い)ふ。任徴君(じんちようくん)曰(いは)く、「病(やまひ)は口(くち)より入(い)る。故(ゆゑ)に君子(くんし)は其(そ)の飲食(いんしよく)を節(ただ)す」と。斯(これ)に由(よ)りて言(い)はば、人(ひと)の疾病(やまひ)に遇(あ)ふは必(かなら)ずしも妖鬼(えうき)にあらず。夫(そ)れ醫方(いはう)諸家(しよか)の廣説(くわうせつ)、飲食(いんしよく)禁忌(きんき)の厚訓(こうくん)、知(し)ること易(やす)く行(おこな)ふこと難(かた)きの鈍情(どんじやう)、三(み)つは目(め)に盈(み)ち、耳(みみ)に満(み)つこと由来(ゆらい)久(ひさ)し。抱朴子(ほうぼくし)に曰(いは)く、「人(ひと)は但(ただ)其(そ)の當(まさ)に死(し)なむ日(ひ)を知(し)らず。故(ゆゑ)に憂(うれ)へざるのみ。若(も)し誠(まこと)に刖劓(げつぎ)して期(ご)を延(の)ぶること得(う)べしと知(し)らば、必(かなら)ず之(これ)を為(な)さむ」と。此(これ)を以(もち)て觀(み)れば、乃(すなは)ち知(し)る、我(わ)が病(やまひ)は、盖(けだ)し斯(こ)れ飲食(いんしよく)の招(を)く所(ところ)にして自(みづか)ら治(をさ)むること能(あた)はざるものか。]

「志恠記(しくわいき)」と憶良が引用した内容については、阿蘇『萬葉集全歌講義』が詳しく注しているので、それを引用しておく。

 志恠記 すでに滅びた六朝時代の小説。二巻本 祖台之撰、四巻本 孔氏撰、三巻本 殖氏撰(隋書経籍志)など、旧唐書・唐書には巻数が異なって出ている。憶良が引用したものは法苑殊林(ほうおんじゆりん)巻九十二や捜神後記四、異苑巻八などの記事と大体一致する。それらによると、晋の時代、東平(山東省)、(幽明録には広平ー河北省)の馮孝将というものが、広州の太守となつた。その息子の二十過ぎの馬子(馮馬子)の夢に、十八、九の娘が現われていうには、自分は前の太守北海(山東省)出身の徐玄方という者の娘だが、生録では八十歳過ぎまで生きられることにことになっている。生き返らせてくれたら妻になろう、と云った。馬子は承知し、棺を掘り、娘を生き返らせる。約束通り夫婦となって、二男一女を生んだという。前掲、『捜神後記 巻四』より。

「内教(ないけう)」は、仏家が仏典を呼ぶ称。内典に同じ。
「瞻浮州(せんぶしう)」は、須弥山の南方海上にある大陸で、人間の住む世界。閻浮提(えんぶだい)ともいう。
「壽延經(じゆえんきやう)」については、阿蘇『萬葉集全歌講義』に「偽経の一つ。正統仏教と別種の思想を混ぜて説いた経。正倉院文書にも見え、長生を願う心から、当時の人々にかなり詠まれていたらしい。」とある。
「壽夭(じゆえう)」は、「長寿と夭折、すなわち長生きと若死に。」の意。
「業報(ごふほう)」は、「業(ごう)(身心の所為)による報い。意業、身業、口業の三業が業因となり、その善悪相応で、苦楽種々の果報を生ずる。」(井村『萬葉集全注』の注)。
「脩短(しうたん)」は「長いことと短いこと。長短。」の意。
「任徴君(じんちようくん)」について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べている。

 任徴君(じんちようくん) 任は姓。高士伝に見える、後漢の任棠(じんとう)か任安(じんあん)かという。徴君は、朝廷に召されても仕えない高徳の隠士。任棠は、後漢、上【圭の左に阝】の人。奇節を以て知られた(後漢書八十一、高士傳、下)。任安は、後漢、綿竹の人。少時より学を好み、隠居して名利を求めなかったので、時の人は任孔子と称し、また、史記魯仲連傳を読み、感嘆して終身仕えなかったから、時の人は任徴君とも号したという(後漢書二百九上、高士傳、下)。 

「醫方(いはう)」は、「医術」の意。
「廣説(くわうせつ)」は、「一般に広まっている説」をいう。
「厚訓(こうくん)」は、「手厚く懇切な教え」をいう。
「鈍情(どんじやう)」は、「愚かな心」の意。
「目(め)に盈(み)ち、耳(みみ)に満(み)つ」は、「多くの書物で読み、しばしば耳にも聞かされていたこと」をいう。
「抱朴子(ほうぼくし)」について、『日本大百科全書』は次のように述べている。

中国、晋(しん)代の道教の士、葛洪(かっこう)(283―343?)の著書。彼の号を書名とした。現行の八巻本には内篇(ないへん)20巻に20章、外篇50巻に52章(第49巻は3章同巻)を載せる。内・外篇の内容を160篇と記すものもあり、梁(りょう)代以来その巻数は「もつれた糸のようである」(『四庫全書(しこぜんしょ)総目提要』)といわれている。内篇は丹砂(たんさ)(水銀と硫黄(いおう)の化合物)や動植物の薬、呼吸法、護符、避邪(ひじゃ)、鬼神の駆使、歴臓法(身中の神々を想念する)、戒律などを示して、仙人となる方法や仙人の種類を記す。道家思想を本(先)とし儒家思想を末(後)とする。外篇は儒家を本として、政治、社会、処世のことを説くほか、文学も論じており、その文体は四六駢儷文(べんれいぶん)発達史上注目されている。巻50の自叙は、葛洪の生涯や本書述作の動機、内容を伝えている。今日『抱朴子』といえば一般に内篇をさす。彼は、後漢末の左慈(さじ)―従祖父(いとこおじ)の葛玄(かつげん)―師の鄭隠(ていいん)へと伝わる道術を正統とし、その口訣(くけつ)(奥義の宗教的口授)を受けたものを明師(めいし)とし、老子や荘子をはじめ他の道流を排斥した。明師を選び修行すれば仙人になれる(神仙可学)と説く点に葛洪の貴族出身の知識人らしさが示されている。一方、星宿(生星と死星)による宿命論を説いて神仙可学説への批判をかわし、各種の養生法や道徳を兼修と称して奨励しており、従来の道術が集大成されている。 [宮澤正順]

「刖劓(げつぎ)」は、『西本願寺本』には「羽翮(うかく)」(羽の意)とあって、それをとって『攷證』は「仙を得し人といへり」とするが、ここは、『抱朴子』に「刖劓」とあり、『紀州本』等の文字が「原字形を察知するに十分」なものであるとして刖劓に改めた『私注』に従うのが良い。「刖(げつ)」は足切り、「劓(ぎ)」は鼻そぎの刑。

 以上の口訳を記すと、次の通り。

 [志恠記に、「広平〈河北省〉の前の大守、北海〈山東省〉出身の徐玄方の娘が十八歳で死んだ。其の霊が馮馬子という者に言うには、『私の生録を調べてみると、寿命は八十歳あまりであるようです。それが今、妖鬼の為に不当にも殺されてすでに四年経ちました。』と。そして馮馬子に会ったことで生き返ることができた」というのはこのことである。仏典には、瞻浮州の人の寿は百二十歳であるという。謹んでこの数を考えてみると、必ずしもこの年齢を過ぎることができないというものでもない。だから、寿延経にも、「ある比丘の、名を難逹というものが、命が終る時になって、仏のもとに云って、寿命を請うてさらに十八年生き延びた。」とある。ただ、よく身を修める者のみが、天地と共にその天寿を全うできるのである。長生きか若死にかは業報の結果であって、その長短次第で、半分にもなるのである。まだこの命数にも達しないで早々と死んでしまうから、「生録未だ半ならず、……」と言ったのである。任徴君は、「病は口から入る。だから君子は飲食を節制するのだ。」と言った。このことからいうと、人が病気になるのは、必ずしも妖鬼のせいではない。だいたい、医療に関する方法や多くの医師の様々な説、飲食の禁止事項についての懇切な教訓、知ることは容易だが実行は困難な愚かな心、この三つについては、昔からいろいろな本で読んだし、よく聞いてもいるところである。抱朴子にいうには、「人はただ、いつ死ぬかわからないから、悲しまないだけだ。もしも、足切り・鼻そぎの刑を受けたら死ぬ時期を延ばすことができると知ったら、必ずそうするだろう。これらのことから考えると、よくわかる。私の病気は、恐らく飲食不節制のせいであって、自分の弱い意志ではどうにもならぬものなのであろうか。]

 以下、第五段は次回に続く。
ラベル:万葉集
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2017年10月13日

『万葉集』を訓(よ)む(その1207)

 今回は、山上憶良作の「沈痾(ちんあ)自哀文(じあいぶん)」の第三段目を訓む。
 第三段の原文は次の通り。なお、写本で二行書きで書かれている注の部分は、ここでは[一行]で記す。

吾聞 前代多有良醫 救療蒼生病患 至若楡<柎>扁鵲華他秦和緩葛稚川陶隠居張仲景等皆是在世良醫 無不除愈也 [扁鵲姓秦字越人 勃海郡人也 割胸採心易而置之投以神藥 即寤如平也 華他字元<化> 沛國譙人也 <若有病結積>沈<重>在内者 刳腸取病 縫復摩膏四五日差之] 追望件醫 非敢所及若逢聖醫神藥者 仰願割刳五蔵抄<探>百病 尋逹膏肓之隩處 [肓鬲也心下為膏 攻之 不可逹之不及藥不至焉] 欲顯二竪之逃匿 [謂晉景公疾秦醫緩視而還者可謂為鬼所【殺】也] 命根<既>盡 終其天年 尚為哀[聖人賢者一切含霊誰免此道乎] 何况生録未半為鬼枉【殺】 顏色壮年為病横困者乎 在世大患 孰甚于此
 注:【殺】とあるのは、写本では、パソコンにない【敏の「母」の部分が「ヨ」の下に「一」】という字であるが、「殺」の俗字なので【殺】で代用した。
 この訓読文を記すと、次の通り。

 吾(われ)聞(き)く、前(さき)の代(よ)に多(おほ)く良醫(りやうい)有(あ)り。蒼生(さうせい)の病患(びやうくわん)を救療(いや)す。楡柎(ゆふ)、扁鵲(へんじやく)、華他(くわた)、秦(しん)の和(くわ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隠居(たういんきよ)、張仲景(ちやうちうけい)等(など)の若(ごと)きに至(いた)りては、皆(みな)是(これ)世(よ)に在(あ)りし良醫(りやうい)にして、除愈(いや)さずといふこと無(な)し。 [扁鵲(へんじやく)、姓(せい)は秦(しん)、字(あざな)は越人(ゑつじん)、勃海郡(ぼつかいぐん)の人(ひと)也(なり)。胸(むね)を割(さ)きて心(しん)を採(と)り、易(か)へて之(これ)を置(お)き、投(とう)ずるに神藥(しんやく)を以(もち)てすれば、即(すなは)ち寤(さ)めて平(つね)の如(ごと)し。華他(くわた)、字(あざな)は元化(げんくわ)、 沛國(はいこく)の譙(せう)の人(ひと)也(なり)。若(も)し病(やまひ)の結積(むすぼほ)れ沈重(おも)りて内(うち)に在(あ)る者(ひと)有(あ)らば、腸(はらわた)を刳(さ)き病(やまひ)を取(と)り、縫(ぬ)ひ復(かへ)して膏(かう)を摩(す)ること四五日(にち)にして差(い)ゆ。]  件(くだり)の醫(くすりし)を追(お)ひ望(のぞ)むとも、敢(あ)へて及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)じ。若(も)し聖醫(せいい)神藥(しんやく)に逢(あ)はば、仰(あふ)ぎ願(ねが)はくは、五蔵(ござう)を割刳(さ)き、百病(びやう)を抄探(さぐ)り、膏肓(かうくわう)の隩處(あうしよ)に尋(たづ)ね逹(いた)り、[肓(くわう)は鬲(かく)也(なり)。心(しん)の下(した)を膏(かう)と為(な)す。之(これ)を攻(をさ)むれども、可(よ)からず。之(これ)に逹(はりとほ)せども及(およ)ばず。藥(くすり)も至(いた)らず。] 二竪(にじゆ)の逃(のが)れ匿(かく)りたるを顯(あら)はさむと欲(おも)ふ。 [晉(しん)の景公(けいこう)疾(や)むに、秦(しん)の醫(くすりし)緩(くわん)、視(み)て還(かへ)りしを謂(い)ふ。鬼(おに)の為(ため)に殺(ころ)さると謂(い)ふ可(べ)き也(なり)。] 命根(みやうこん)既(すで)に盡(つ)き、其(そ)の天年(てんねん)を終(をは)るすら尚(なほ)哀(かな)しと為(な)す。[聖人(せいじん)賢者(けんじや)一切(いつさい)の含霊(がんりやう)、誰(たれ)か此(こ)の道(みち)を免(のが)れむや。] 何(なに)そ况(いは)んや生録(せいろく)未(いま)だ半(なか)ば為(な)らず。鬼(おに)の為(ため)に枉(よこしま)に殺(ころ)され、 顏色(がんしよく)壮年(さうねん)にして病(やまひ)の為(ため)に横(ほしきまま)に困(たしな)めらるる者(ひと)はや。世(よ)に在(あ)る大患(たいくわん)、孰(いづれ)か此(これ)より甚(はなはだ)しからむ。

「蒼生(さうせい)」は、「あをひとくさ」とも訓み、草木の青々として生い茂ることを比喩とした表現で、「人民」の意。 
「救療(いや)す」は、サ行四段活用の他動詞。イユの他動詞形で、「病気・飢え・苦しみ・悩みなどを治す。」ことをいう。
「楡柎(ゆふ)、扁鵲(へんじやく)、華他(くわた)、和(くわ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隠居(たういんきよ)、張仲景(ちやうちうけい)」は、いずれも名医として高名だった人物。以下、各人物について、阿蘇『萬葉集全歌講義』の注を引用しておこう。

 楡柎(ゆふ) 「楡柎、黄帝時医」(周礼)。「上古之時、医有楡柎」(史記)。黄帝は中国古代伝説上の皇帝の一人。
 扁鵲(へんじやく) 姓は秦。字は越人。勃海郡の鄭(河南省)の人。史記列伝に、病人を見ただけで五臓のしこりがすべてわかり、病原の所在をつきとめることができたという、死んだと思われた虢(かく)国の太子を生き返らせるなど、その名医ぶりが見える。
 華他(くわた) 字は元化、沛国の譙の人。後漢の名医。酒を飲ませ、酔わせて開腹して洗滌したという。魏志に華他伝があり、ここと類似の伝えを載せる。
 秦の和(くわ)・緩(くわん) 和と緩は、共に秦の名医。晋の平公の病に際し、秦の景公が和に命じて診察させたという(『国語晋語』)。また、晋の景公が病の時、医を秦に求め、秦伯は医緩を使わし診させた ー 後出、二竪の逃れ匿りたるを顕はさむ、の注 ー(『左伝』成公十年)。
 葛稚川(かつちせん) 晋の人。名は、洪。字は、稚川。『抱朴子』の著者。
 陶隠居(たういんきよ) 梁の人。名は、弘景。字は通明。
 張仲景(ちやうちうけい) 後漢の人。名は、機。南陽の人。

「勃海郡(ぼつかいぐん)」は、漢(前二〇二〜後二二〇)の郡名の一つで、渤海湾に面する地方。
「心(しん)を採(と)り、易(か)へて之(これ)を置(お)き」は、扁鵲が二人の男の心臓を取り替えたことをいう(列子湯問篇)。
「沛國(はいこく)の譙(せう)」は、後漢の郡名で、現在の安徽(あんき)省亳(はく)県という。
「五蔵(ござう)」は「心臓・肝臓・肺臓・脾臓・腎臓」をいう。
「膏肓(かうくわう)の隩處(あうしよ)」は、「内臓の奥深い所」の意。膏は、心臓の下。肓は、横隔膜。今でも、不治の病気にかかることを「病、膏肓(こうこう)に入る」という。
「二竪(にじゆ)の逃(のが)れ匿(かく)りたるを顯(あら)はさむ」は、『春秋左氏伝』の成公伝十年条の逸話による表現で、その逸話について、井村『萬葉集全注』は「その大意は、晋の景公が病み、秦の医者緩(かん)がつかわされたが、景公の夢に二人の童子があらわれ、緩を恐れて肓(こう)の上と膏(こう)の下に居れば大丈夫だと相談していると見た。この夢の話を聞いて緩は、病が膏肓に入れば、『攻(をさ)ムレドモヨカラズ、逹(はりとほ)セドモ及バズ、薬モ至ラズ』と診断した。景公はこれを良医なりとして厚く礼を与えて帰したという。」と記している。
「命根(みやうこん)」は、仏語。井村『萬葉集全注』に「この世に生存する期間、体温と種々の精神作用をもたらすもとになるもの。寿命。」とある。
「含霊(がんりやう)」も仏語で、「霊魂を有するもの。」の意。
「生録(せいろく)」は、「寿命を記録した帳簿」をいうと思われるが、ここは「寿命」の意で用いている。
 以上の口訳を記すと、次の通り。

 私が聞くところでは、昔は多くの名医がいて人々の病気を治した。楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景などは、皆かつてこの世にいた良医で、どんな病気も治したという。 [扁鵲は、姓は秦、字は越人。勃海郡の人。胸を切り開いて、心臓を取り出し、置きかえて、妙薬を与えたところ、すぐに目覚めて普段の状態に戻った。華他、字は元化、 沛國の譙の人である。もし病気が積み重なって体内深く潜んでいる者がいれば、はらわたを割いて病の部分を取(と)りのぞき、縫い合わせて膏薬をすり込むと四五日で治ったという。]  これらの名医を今求めたとしても到底かなえられまい。もし聖医神薬にめぐり逢えたら、どうか、五臓を切り開いて、諸々の病気を探り出し、膏・肓の奥深いところまで尋ねて行き、[肓は横隔膜である。心臓の下をを膏という。ここを治療することは不可能であり、針を刺しても届かない。薬も効かない。] 病気を引き起こすという二人の童子の逃れて隠れているところをはっきりさせて欲しい。 [晋の景公病気になった時、秦の緩が診察下がそのまま帰ってしまったという話がある。景公は鬼のために殺されたというべきだろう。] 寿命が尽きて、天寿を全うした場合でも、やはり悲しいものである。。[聖人・賢者をはじめ一切の命ある者の誰がこの死の道を辿らないでいられようか。] まして、天寿の半ばにも達していないのに、鬼に不当にも殺され、 まだ見たところ元気そのものなのに病気のために否応なしに苦しめられる人の悲しみは
いうまでもない。世に数ある不幸の中で、これ以上辛いことがあろうか。

 以下、第四段は次回に続く。 
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 14:56| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする