2015年11月30日

『万葉集』を訓(よ)む ー閑話休題(その33)ー

 今回は閑話休題として、前回まで訓んできた「大伴坂上郎女歌六首」とその前の「大伴宿祢駿河麻呂歌三首」についてのまとめを行いたいと思う。まずそれらの歌の漢字仮名交じり文を示すと、

「大伴宿祢駿河麻呂歌三首」
〔六五三〕情(こころ)には 忘(わす)れぬものを 儻(たまさか)に 見(み)ぬ日(ひ)さ數多(まね)く
 月(つき)そ經(へ)にける
〔六五四〕相見(あひみ)ては 月(つき)も經(へ)なくに 戀(こ)ふと云(い)はば をそろと吾(われ)を
 おもほさむかも
〔六五五〕念(おも)はぬを 思(おも)ふと云(い)はば 天地(あめつち)の 神祇(かみ)も知(し)らさむ
 邑(くに)こそ境(さか)へ

「大伴坂上郎女歌六首」
〔六五六〕吾(われ)のみそ 君(きみ)には戀(こ)ふる 吾(わ)が背子(せこ)が
 戀(こ)ふと云(い)ふ事(こと)は 言(こと)のなぐさそ
〔六五七〕念(おも)はじと 曰(い)ひてしものを はねず色(いろ)の 變(うつろ)ひ安(やす)き
 吾(わ)が意(こころ)かも
〔六五八〕念(おも)へども 験(しるし)も無(な)しと 知(し)るものを 奈何(なに)か幾許(ここだ)く
 吾(わ)が戀(こ)ひ渡(わた)る
〔六五九〕豫(あらかじめ) 人事(ひとごと)繁(しげ)し 如是(かく)し有(あ)らば
 しゑや吾(わ)が背子(せこ) 奥(おく)も何如(いか)にあらめ
〔六六〇〕汝( な)をと吾(あ)を 人(ひと)そ離(さ)くなる いで吾(あ)が君(きみ)
 人(ひと)の中言(なかごと) 聞(き)きこすなゆめ
〔六六一〕戀(こ)ひ戀(こ)ひて 相(あ)[逢]へる時(とき)だに 愛(うつく)しき
 事(こと)[言]盡(つく)してよ 長(なが)くと念(おも)はば

 この「大伴坂上郎女歌六首」について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べている。

 駿河麻呂に返した歌と思われるが、彼の三首に対して倍の六首の歌を返している。内容も激しい。親族間の親愛の情の表出ということもできる駿河麻呂の歌に対して、この六首は、社交的挨拶の歌とは到底いいがたいところがある。「われのみそ君には恋ふる」と高い調子で相手の恋の生ぬるさをなじる六五六。その頼み甲斐のない相手への恋心をいかんともしがたいと告白する六五七・六五八。人の中傷により二人の仲が壊れることをひたすら恐れる六五九・六六〇。一転して、六六一ではすべてを忘れただこのひとときの逢瀬を大切にしようとささやきかける。駿河麻呂を相手にしながら、実は架空の恋人を作り上げて、現実にはいないその人に恋の歌を詠みかけているようである。六首のうち、枕詞は「はねず色の」ただひとつで、序詞もない。家持や紀女郎の歌に見られるような特殊な言い回しや凝った道具立てもない。感情を率直に表現していて迫力がある。相聞歌を得意とする坂上郎女の力量を示す連作と思われる。

 確かに、駿河麻呂の三首に対しての返歌としては、この六首はその枠をはみ出しているといえよう。前半の656〜658の三首には、駿河麻呂の三首を意識した歌いぶりがまだ認められるが、後半の三首は駿河麻呂の三首からはみ出した歌いぶりで、作者の大伴坂上郎女は、この六首で独自の物語を展開しようと試みたものと思われる。
 656の「戀(こ)ふと云(い)ふ事(こと)」は駿河麻呂の654の「戀(こ)ふと云(い)はば」に応じたものであり、「戀(こ)ふと云(い)ふ事(こと)」の具体的内容は駿河麻呂の653に詠まれた通りであるといえるし、657の「念(おも)はじと曰(い)ひてしものを」及び658の「念(おも)へども」は、駿河麻呂の655の「念(おも)はぬを思(おも)ふと云(い)はば」を意識した表現と見てよいだろう。また658の結句「吾(わ)が戀(こ)ひ渡(わた)る」は、駿河麻呂の653の結句「月(つき)そ經(へ)にける」に照応していると言える。このように、前半の656〜658の三首だけであれば、駿河麻呂の三首に対する返歌であると言って済ますこともできようが、坂上郎女は、この三首を踏まえながら更に三首を加えることによって、阿蘇が「駿河麻呂を相手にしながら、実は架空の恋人を作り上げて、現実にはいないその人に恋の歌を詠みかけている」という一つの恋物語を六首の歌群として構成したものと考えられる。
 このことについては、伊藤博『萬葉集釋注』も次のように述べている。

 坂上郎女の六首の答え方は、どう見ても物語的である。相手の三首にかかわりながら転換と展開とが見られ、落ちまでつけられていて、実用の相聞というよりは、「恋歌」の贈答を文学的に交わして楽しむところがある。ここでも駿河麻呂と坂上郎女とは、互いに二嬢の映像を下地に置いているのかもしれない。しかし、その点を生まじめに問題にして、郎女の歌は二嬢の代作などといってしまうと、文雅が一挙に消え失せてしまうというのが、この歌群であるように思う。

 なお、「大伴坂上郎女歌六首」を二嬢に代わっての作とする説をとるものとしては、窪田空穂の『萬葉集評釈』や土屋文明の『萬葉集私注』があるが、「郎女自身の立場での詠作である」(阿蘇『萬葉集全歌講義』)と見る方が良いように思う。
タグ:万葉集
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2015年11月27日

『万葉集』を訓(よ)む(その923)

 今回は、661番歌を訓む。「大伴坂上郎女歌六首」の六首目。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  戀々而 相有時谷 愛寸 事盡手四 長常念者

 1句「戀々而」は「戀(こ)ひ戀(こ)ひて」と訓む。「戀々」は、ハ行上二段活用の他動詞「こふ」の連用形を二回続けた「戀(こ)ひ戀(こ)ひ」と訓む。「而」は漢文の助字で、接続助詞「て」。
 木下『萬葉集全注』のこの句の注に「動詞の連用形を重ねた形にテを付けると、長い間その状態ないしその動作を続けやっと何らかの結末に到達したことを表わす。『住み住みて』『言ひ言ひて』『行き行きて』など皆その形である。このあとの『狂ひに狂ひ』『堰きに堰く』などとは意味が異なる。」とある。ということで、「戀(こ)ひ戀(こ)ひて」は「恋しく思い続けてやっと」の意である。
 2句「相有時谷」は「相(あ)[逢]へる時(とき)だに」と訓む。「相有」(513番歌に既出)は、ハ行四段活用の自動詞「あふ」の已然形(音韻上は命令形)「相(あ)[逢]へ」+完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」(「有」で表記)で「相(あ)[逢]へる」。『岩波古語辞典』によれば、完了の助動詞「り」は、四段・サ変・カ変・上一段活用の動詞の連用形と、それを承ける「あり」との音韻の融合によって奈良時代以前に生じた形である。ここの例で言えば、「あふ」の連用形「あひ」+「あり」の「あひあり」が音韻変化して「あへり」となったもので、この「へ」は甲類音である。ところが四段活用である「あふ」の已然形「あへ」の「へ」は乙類音で、命令形の「あへ」の「へ」が甲類音なので、音韻変化した「あへり」の「あへ」は命令形ということになる。しかし、命令の機能の下に、さらに「り」が加わるということは考えられないので、先には、「あふ」の已然形(音韻上は命令形)「相(あ)[逢]へ」+完了・存続の助動詞「り」という説明をしたものである。「時(とき)」(618番歌他に既出)は、行為や状態を表わす連体修飾句を受けて「そうする場合、そういう状態である場合」の意を表わす。「谷」は489番歌他に既出で、副助詞「だに」に宛てた借訓字。「だに」は「せめて…だけでも」の意。
 3句「愛寸」は「愛(うつく)しき」と訓む。438番歌1句「愛」と同句。そのところでも述べたが、ウツクシキとウルハシキの両訓があり、ここも「愛(うるは)しき」と訓むものも多い。しかし、『万葉集』では、ウツクシは、父母・妻子・夫婦、また恋人に対する愛情の表現として、ウルハシは、風光に対する形容として用いられていることからすると、ここはウツクシキと訓むほうが良いと思われる。「寸」は、「き(甲類)」の常用訓仮名で、連体形であることを明示するために活用語尾「き」を表記したもの。
 4句「事盡手四」は「事(こと)[言]盡(つく)してよ」と訓む。ここの「事(こと)」は「言=言葉」の意で、前の句を受けた「愛(うつく)しき事(こと)[言]」は「愛情のこもったやさしい言葉」という意味になる。「盡」は「尽」の旧字で、『名義抄』に「盡 ツキヌ・ツクス・コトコトク・ククル・コゾル・アツ」とあり、460番歌他の既出例では「ことごと」と訓んできた。ここはサ行四段活用の他動詞「つくす」の連用形で「盡(つく)し」と訓む。「つくす」は「つきる(尽)」の他動詞形で、「つきるようにする」ことをいう。「手」は「て」の常用訓仮名、「四」は数字であり、シ音の音仮名であるが、ここは「よ」の訓仮名として用いたもの。「手四」で以って、完了の助動詞「つ」の命令形「てよ」を表わす。
 5句「長常念者」は「長(なが)くと念(おも)はば」と訓む。「長」はク活用形容詞「ながし」の連用形で「長(なが)く」。「常」は「と(乙類)」の訓仮名で、格助詞「と」。「念者」は631番歌他の既出例では、ハ行四段活用の他動詞「おもふ」の已然形「念(おも)へ」+順接の確定条件を表す接続助詞「ば」=「念(おも)へば」と訓んできたが、ここの「念者」は、ハ行四段活用の他動詞「おもふ」の未然形「念(おも)は」+順接の仮定条件を表す接続助詞「ば」(「は」の訓仮名「者」を流用して表記)=「念(おも)はば」と訓む。
 661番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  戀(こ)ひ戀(こ)ひて 相(あ)[逢]へる時(とき)だに
  愛(うつく)しき 事(こと)[言]盡(つく)してよ
  長(なが)くと念(おも)はば

  恋しく思い続けてやっと 逢えた時ぐらいは
  愛情のこもったやさしい 言葉の限りを言って下さい
  末長くとお思いでしたら
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 18:19| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

『万葉集』を訓(よ)む(その922)

 今回は、六六〇番歌を訓む。「大伴坂上郎女歌六首」の五首目。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  汝乎与吾乎 人曽離奈流 乞吾君 人之中言 聞起名湯目

 1句「汝乎与吾乎」は「汝( な)をと吾(あ)を」と訓む。「汝(な)」(622番歌他に既出)は、奈良時代にはもっとも一般的な対称代名詞(二人称)として用いられており、特に歌ではもっぱらこの語を使用する。敬意は高くなく対等もしくはそれ以下の相手に対して用い、男から女に用いるのが普通であるが、ここは、作者の大伴坂上郎女が年下の大伴宿祢駿河麻呂に対して用いたもの。作者坂上郎女は藤原麻呂に贈る歌に「汝( な)が来と思へば」(528番歌)と言ったことがあった。「乎」はヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、格助詞「を」。「与」は「と(乙類)」の訓仮名で、格助詞「と」。「吾」は、自称で作者の大伴坂上郎女を指す。「わ」とも「あ」とも訓まれるが、ここは「吾(あ)」と訓むこととする。次の「乎」は上と同じで、格助詞「と」。
 この句について、澤瀉『萬葉集注釋』は次のように述べている。

 「汝をと吾を」は通例なれば「汝と吾とを」といふべきところであるが、「阿乎夜奈義(アオヤナギ) 烏梅等能波奈乎(ウメトノハナヲ)」(五・八二一)、「古乎等都麻乎等(コヲトツマヲト)」(廿・四三八五)の如き例もあり、「と」と「を」との破格な用法をしたものと思はれる。「あなたを、そして、私を」と云つた氣持が感じられて、「汝と吾と」と云ふよりも新鮮な思ひ入つた心が示されるからではなからうか。

 2句「人曽離奈流」は「人(ひと)そ離(さ)くなる」と訓む。ここの「人(ひと)」は「他人あるいは世間の人」の意。「曽」はソ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、強く指示する意の係助詞「そ」。「離」はカ行下二段活用の他動詞「さく」の終止形「離(さ)く」。「さく」は「二人の仲を隔てる。ひきさく。」ことをいう。「奈」はナ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「流」はル音の常用音仮名(片仮名の字源)。「奈流」で以って、伝聞・推定の助動詞「なり」の連体形「なる」を表す。
 3句「乞吾君」は「いで吾(あ)が君(きみ)」と訓む。「乞」(8番歌に既出)には、人にものを乞い、またある行動を起こすよう求める意味があるところから、人をある行動に誘う、またはある行動を起こすよう請い求める気持を表わす感動詞「いで」を表すのに用いたもの。「吾君」は、641番歌5句の「吾君」などと同じく「吾(あ)が君(きみ)」と訓み、「吾(あ)」は作者の大伴坂上郎女を、「君(きみ)」は大伴宿祢駿河麻呂をさす。
 4句「人之中言」は「人(ひと)の中言(なかごと)」と訓む。「人(ひと)」は2句に同じで、「他人あるいは世間の人」。「之」は漢文の助字で、連体助詞「の」。「中言(なかごと)」は「双方の間に立って、一方の人のことを他方の人に悪く言うこと。どちらに対しても相手の悪口を言うこと。中傷。」の意。
 5句「聞起名湯目」は「聞(き)きこすなゆめ」と訓む。「聞起」は、カ行四段活用の他動詞「きく」の連用形「聞(き)き」+希求の助動詞「こす」(終止形。「起」で表記)で「聞(き)きこす」と訓む。「起」は、オコスのオを略してコスの表記としたもので、『万葉用字格』にいう略訓表記である。「名」は「な」の常用訓仮名で、ここは禁止の終助詞「な」に用いたもの。「湯」「目」は、各々「ゆ」「め(乙類)の常用訓仮名で、「湯目」で以って、副詞「ゆめ」の表記としたもの。「ゆめ」(590番歌他に既出)は、禁止の語句と共に用いて、「決して(…するな)。必ず(…するな)。」の意を表わす。漢字表記には、「勤」の他、「努」「努力」「慎」「夢」などを当てている。強く注意を促すための語であり、それを更に重ねて強めた語に「ゆめゆめ」がある。
 660番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  汝( な)をと吾(あ)を 人(ひと)そ離(さ)くなる
  いで吾(あ)が君(きみ) 人(ひと)の中言(なかごと)
  聞(き)きこすなゆめ

  あなたとわたしを 他人が引き離そうとしているようです
  ねえ(お願いです)あなた そんな他人の中傷など
  決して聞かないでください
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 20:05| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする