2016年02月29日

『万葉集』を訓(よ)む(その978)

 今回は、716番歌を訓む。「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」の三首目。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  夜晝 云別不知 吾戀 情盖 夢所見寸八

 1句「夜晝」は「夜晝(よるひる)と」と訓む。「夜晝」は格助詞「と」を補読して「夜晝(よるひる)と」と訓む。「夜晝(よるひる)」(193番歌に既出)は「夜(日没から日の出まで)と昼(日の出から日没まで)」の意。
 2句「云別不知」は「云(い)ふ別(わき)知(し)らず」と訓む。「云」はハ行四段活用の自動詞「いふ」の連体形「云(い)ふ」。「別」は、四段活用動詞「わく(分く)」の名詞化した「別(わき)」と訓み、「区別。差別。けじめ。」の意。「不知」(581番歌他に既出)は、ラ行四段活用の他動詞「しる」の未然形「知(し)ら」+打消しの助動詞「ず」(連用形。「不」で表記)で「知(し)らず」。
 1句・2句についての阿蘇『萬葉集全歌講義』の注に「わき」の用例が挙げられているので、引用しておく。

 夜昼といふわき知らず 「わき」は、区別。違いに対する認識。ここは、恋心のせいで夜と昼の区別もつかなくなったほどの状態であることをいう。「春雨の降る別(わき)知らず」(10・一九一五)、「年月の行くらむ別(わき)も思ほえぬかも」(11・二五三六)、「月しあれば明くらむ別(わき)も知らずして」(11・二六六五)、「出(い)づる日の入る別(わき)知らぬ」(12・二九四〇)。

 3句「吾戀」は「吾(わ)が戀(こ)ふる」と訓む。この句は150番歌11句と同句。「吾」は格助詞の「が」を補読して「吾(わ)が」。「吾(わ)」は自称で、作者の家持をさす。「戀」はハ行上二段活用の他動詞「こふ」の連体形で「戀(こ)ふる」。
 4句「情盖」は「情(こころ)は盖(けだし)」と訓む。「情(こころ)」は、「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」の一首目の714番歌にも既出で、「人間の理知的、情意的な精神機能をつかさどる器官、また、その働き。」をいうが、ここは前の句から続いて「吾(わ)が戀(こ)ふる情(こころ)」で、「私の恋しい気持ち」の意。「盖(けだし)」(427番歌他に既出)は、あり得る事態を想定する時の、肯定的な仮定の気持を表わす副詞で、「ひょっとすると。もしかすると。」の意。
 5句「夢所見寸八」は「夢(いめ)に見(み)えきや」と訓む。「夢所見」は639番歌他に既出。「夢」は、ユメではなくイメと訓むが、ここは下に格助詞「に」を補読して「夢(いめ)に」。イは「寐(ぬ=ねる)」の意で、メは見ることを意味する。「所見」は、マ行上一段活用の他動詞「みる」の未然形「見(み)」+受身・可能・自発の助動詞「ゆ」の連用形「え」(漢文の助字「所」で表記)で「見(み)え」。「寸八」は460番歌末句に既出。「寸」は「き(甲類)」の常用訓仮名で、回想の助動詞「き」。「八」は「や」の常用訓仮名で、係助詞「や」。『岩波古語辞典』の解説に「『や』は終止形の下につき文の叙述の終りに加えられた場合には、相手に質問し、問いかける気持を表わす。この場合、話し手は、単に不明・不審だから相手に疑問を投げかけるものであるよりも、自分に一つの見込ないしは予断があることが多い。『雨に降りきや』と問うとき、『降ったか降らなかったか分らない』のではなく、『降ったにちがいない』という見込・予断を持ちながら、それを相手に提示して反応を待つのである。」とある。ここも、深く思えば相手の夢に自分の姿が見えるという考えから「夢に見えたでしょうか」と問いかけたもの。
 716番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  夜晝(よるひる)と 云(い)ふ別(わき)知(し)らず
  吾(わ)が戀(こ)ふる 情(こころ)は盖(けだし)
  夢(いめ)に見(み)えきや

  夜昼の 区別もつかないほどに
  わたしが恋い慕う 心のほどはあるいは
  夢に見えたでしょうか
タグ:万葉集
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2016年02月26日

『万葉集』を訓(よ)む(その977)

 今回は、715番歌を訓む。「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」の二首目。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  千鳥鳴 佐保乃河門之 清瀬乎 馬打和多思 何時将通

 1句「千鳥鳴」は「千鳥(ちどり)鳴(な)く」と訓む。この句は526番歌1句及び528番歌1句と同句。「千鳥(ちどり)」は、多数で群をなして飛ぶところから呼ばれたもので、チドリ科の鳥の総称。「鳴」はカ行四段活用の自動詞「なく」の連体形で「鳴(な)く」。「千鳥(ちどり)鳴(な)く」は、次の「佐保川」の慣用的修飾語。
 2句「佐保乃河門之」は「佐保(さほ)の河門(かはと)の」と訓む。この句も528番歌2句「佐保乃河門乃」と最後の「の」の表記が異なるだけで同句。「佐保(さほ)」は「佐保川」のこと。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体助詞「の」。「河門(かはと)」の「門(と)」は通り道が狭くなっているところの意で、「河門(かはと)」は、「川の両岸が迫って川幅が狭くなっている所。」をいう。転じて、「川の渡り場。」の意にも用いられ、ここはその例とみられる。「之」は漢文の助字で、連体助詞「の」。
 3句「清瀬乎」は「清(きよ)き瀬(せ)を」と訓む。「清瀬」は「せいらい」とも「きよせ」とも訓めるが、ここは「清(きよ)き瀬(せ)」と訓む。「清(きよ)き」はク活用形容詞「きよし」の連体形。「きよし」は「けがれのないさま。清浄なさま。また、水や月などの澄みわたっているさま。」をいう。「瀬(せ)」は「歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。」の意。
 4句「馬打和多思」は「馬(うま)打(う)ちわたし[渡し]」と訓む。「馬(うま)」は、164・263番歌などの「馬」に見たと同じく、当時の旅の交通手段。「打」はタ行四段活用の他動詞「うつ」の連用形「打(う)ち」。「うつ」は「物を物に向けて強く当てる」ことをいう語で、ここは「鞭でもって馬をたたく」ことをいう。「和」はワ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「多」はタ音の常用音仮名(片仮名の字源)、「思」はシ音の音仮名。「和多思」で以って、サ行四段活用の他動詞「わたす」の連用形「わたし[渡し]」を表す。「わたす」は「馬や船など乗り物を、海や川の一方の岸から他方の岸へ行かせる。また、人や物を乗せて向こう岸へ運ぶ。」ことをいう。
 「うち渡し」の「うち」を接頭語と見る説もあるが、この句について、木下『萬葉集全注』は「馬に鞭打って川を渡らせ。『馬』の語がある場合の打チ越ユ・打チ行ク・打チ渡スの打チは単なる接頭語でなく、実際に馬を鞭で打つ意で用いている。ワタスはワタルに対する使役動詞。」と注しており、この木下説により「うち」は動詞とみた。
 5句「何時将通」は「何時(いつ)か通(かよ)はむ」と訓む。「何時」(282番歌他に既出)は、疑問の係助詞「か」を補読して「何時(いつ)か」と訓む。「いつか」は、代名詞「いつ」に疑問の係助詞「か」の付いてできた語であり、未来および過去の事がらに関して、それがどの時点であるかはっきりしないことを表わす。「将通」(576番歌他に既出)は、ハ行四段活用の自動詞「かよふ」の未然形「通(かよ)は」+意志・意向の助動詞「む」(連体形。漢文の助字「将」で表記。)で「通(かよ)はむ」。「かよふ」は「何らかのつながりができて、ある目的で特定の場所に、いつも行き来する。」ことをいう。
 715番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  千鳥(ちどり)鳴(な)く 佐保(さほ)の河門(かはと)の
  清(きよ)き瀬(せ)を 馬(うま)打(う)ちわたし[渡し]
  何時(いつ)か通(かよ)はむ

  千鳥の鳴く 佐保川の河門の
  清い瀬を 馬に鞭打ち渡って
  いつになったらあなたの許へ通えるだろうか

「参考」この歌について、木下『萬葉集全注』は【考】欄で次のように述べている。

 攷証が「この娘子の家は佐保川のあなたなりけむ」と言うのも、事実その通りであろうが、むしろ坂上郎女の「佐保川の小石踏み渡り」(五二五)、「千鳥鳴く佐保の川瀬の」(五二六)、「千鳥鳴く佐保の河門の」(五二八)の用語や歌境を借り来って作った興味優先の作ではなかろうか。
タグ:万葉集
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2016年02月25日

『万葉集』を訓(よ)む(その976)

 今回は、714番歌を訓む。題詞に「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」とあって、本歌〜720番歌の七首は「大伴宿祢(おほとものすくね)家持(やかもち)」が「娘子(をとめ)」に贈った歌である。これらの歌も、691・692・700番歌などと同様、単に「娘子」と称するだけであり、具体的な対象なしに詠んだ恋歌とみてよいだろう。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  情尓者 思渡跡 縁乎無三 外耳為而 嘆曽吾為

 1句「情尓者」は「情(こころ)には」と訓む。「情(こころ)」は、前歌にも既出で、「人間の理知的、情意的な精神機能をつかさどる器官、また、その働き。」をいう。「尓」はニ音の常用音仮名で、格助詞「に」。「者」は訓仮名で、係助詞「は」。「には」は、場所・時・対象・比較の基準など、格助詞「に」の意味を強調または取りたてて示すのに用いられる。
 2句「思渡跡」は「思(おも)ひ渡(わた)れど」と訓む。「思」はハ行四段活用の他動詞「おもふ」の連用形「思(おも)ひ」。「渡」はラ行四段動詞「わたる」の已然形「渡(わた)れ」。この「わたる」は補助動詞として用いたもので、動詞の連用形について「ある期間ずっと…し続ける。」意。「跡」は「と(乙類)」の常用訓仮名であるが、ここは、逆接の既定条件を示す接続助詞「ど」に流用したもの。
 3句「縁乎無三」は「縁(よし)を無(な)み」と訓む。「縁」は、546番歌7句のそれと同様、ヨシと訓む。「縁(よし)」は「かかわりを持つための方法。手段。てだて。すべ。」の意。「乎」はヲ音を表わす常用の音仮名で格助詞「を」。「無三」は、ク活用形容詞「なし」の語幹「無(な)」+接続助詞「み」(「み(甲類)」の常用訓仮名「三」で表記)で「無(な)み」。「よしをなみ」は、表記は異なるが、既出例が四例(210・213・483・508番歌)あり、その全てが「逢ふよしをなみ」というもので、ここもそれらと同じく、「逢う方法がないので」の意に用いたものと考えてよいだろう。
 4句「外耳為而」は「外(よそ)のみにして」と訓む。「外耳」は、592番歌3句と同様、下に格助詞「に」を補読して「外(よそ)のみに」と訓む。「外(よそ)」は「関係や関心がないこと。無縁な存在。」の意。「耳」は、限定・強意を表わす漢文の助字であるが、限定を表わす副助詞「のみ」に宛てたもの。「為而」(366番歌他に既出)は、サ行変格活用の他動詞「す」の連用形「為(し)」+接続助詞「て」(漢文の助字「而」で表記)からできた連語で、助詞のように用いられているので「して」と訓む。ここの「して」は、格助詞的用法で、体言を受け、また多くは「にして」の形で動作の行なわれる空間、時間などを示す。「…で。…において。」の意。「外(よそ)のみにして」は「遠くにいて。離れてばかりいて。」などと口訳されている。
 5句「嘆曽吾為」は「嘆(なげ)きそ吾(わ)が為(す)る」と訓む。「嘆」は、646番歌他に既出で、ここは動詞「なげく」の連用形が名詞化した「嘆(なげ)き」。「曽」はソ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、強く指示する意の係助詞「そ」。「吾」は、自称「わ」(「あ」とするものもある)に主格の格助詞「が」を補読して「吾(わ)が」と訓む。「吾(わ)」は作者の家持をさす。「為」は、サ行変格活用の他動詞「す」の連体形で「為(す)る」。上の係助詞「そ」の結び。「する」は「ある動作や行為を行なう。」ことをいう。「嘆(なげ)きそ吾(わ)が為(す)る」は、主格を述語の間に挟んだもので、「嘆きを自分がする」の意。

 714番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  情(こころ)には 思(おも)ひ渡(わた)れど
  縁(よし)を無(な)み 外(よそ)のみにして
  嘆(なげ)きそ吾(わ)が為(す)る

  心では 思い続けているのだが
  逢う方法がないので 離れてばかりいて
  嘆いているわたしです
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 14:46| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする