2016年06月30日

『万葉集』を訓(よ)む(その1059)

 今回は、前回の続きで、794番歌の前に載録されている詩文を訓む。前回、語句の注釈の途中であったので、その続きから。
 
「力負(りきふ)」は「どのように手をつくしても、それが何にもならないことがあるということ。自然のなりゆきの前には、人間は無力であるというたとえ。転じて、死が逃れがたいこと。また、死。」をいう。『荘子』大宗師篇に「夫蔵舟於壑、蔵山於沢、謂之固矣、然而夜半有力者負之而走」とあるによる。これは、「舟を谷に隠して安心していても、夜半に力有る者が負うて逃げる。愚かな者はこれを知らない、という寓話。
「三千世界」は、仏教の世界観による全宇宙のこと。井村『萬葉集全注』に「『世』は過去・現在・未来。『界』は東西南北・四維・上下。須弥山(しゅみせん)を中心に九山(くせん)・八海(はつかい)・四洲(ししゆう)をめぐらし、日・月を配して一世界。これが千個集まって小千世界、その千倍が中千世界、さらに千倍して大千世界となる。以上、小・中・大三種の千世界を統べて、三・千世界と言う。」とある。
「黒闇(こくあん)」は、「黒闇天」の略。吉祥天の妹で容貌は醜く、人の功徳を消し、災いを与える女神。密教では閻魔(えんま)王の三人の妃の一人とされ、左手に人頭の杖をもつ。「黒闇神。黒闇天女。黒夜神。黒夜天。」ともいう。「死その他一切の不幸の根源」として、涅槃経(ねはんぎよう)聖行品(しようぎようほん)の寓話に出てくる。
「捜(あなぐ)り」は、ラ行四段活用の他動詞「あなぐる」の連用形。「あなぐる」は「さぐる。探し求める。」ことをいう。
「二鼠(にそ)競(きほ)ひ走りて」は「昼と夜とがその早さを競い走って」の意。「二鼠(にそ)」は昼と夜の譬え。仏説譬喩経に「黒白二鼠、昼夜に喩ふ」とある。
「目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び」は、時の経過の早い比喩で、「目の前を飛び去る鳥が朝飛ぶようにすばやく時は過ぎ」の意。
「四蛇(しじや)争(いそ)ひ侵(をか)して」は「身体を構成する四大という蛇がせめぎあって」の意。四蛇(しじや)は、四大(万物を構成する四大要素すなわち地・水・火・風)を四つの毒蛇に喩えて言ったもの。
「隙(ひま)を過ぐる駒(こま)夕(ゆふへ)に走る」は、「目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び」と同じく時の経過の早い比喩で、「隙間を一瞬に過ぎる駒が夕方走るように、人生は慌ただしく過ぎる」の意。
「紅顏(こうがん)」は「年若く血色のよい顔。紅色の美しい容貌。」をいう。
「三従(さんじゆう)」は「女性が従うべきとされた三つの道」の意で、仏教や儒教道徳でいわれたもの。家にあっては父に従い、嫁(か)しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従うという女性としての心がまえを教えたことば。
「素質(そしつ)」は「白い肌。女性の白い柔肌。」をいう。「素」は白色の意。
「四徳(しとく)」は「(周礼‐天官・九嬪)による」婦人のもつべき四つの徳。」をいう。すなわち、婦徳(女としての貞順な心)・婦言(女らしい言葉遣い)・婦容(女らしい立ち居振舞)・婦功(女の仕事、手芸・染織・洗濯など)の四つ。
「何そ圖(はか)らむ」は「どうして図ったりしましょうか。思いも寄らなかったことです。」の意。「何そ」は、原因・動機の納得しがたいさまを表わすし、反語に用いる。「どうして(…なものか)。なぜ(…したりするのか)。」の意。
「偕老(かいらう)の要期(えうご)に違(たが)ひ」は「共に老いるとの誓いも空しく」の意。「偕老」は「老を偕(とも)にする」の意で、「夫婦が老年になるまで、生活を共にすること。」をいう。「要期」は「約束すること。ちぎり。」の意。
「獨飛(どくひ)して半路(はんろ)に生かむ」は「連れを失った鳥のように、人生の半ばにして連れを失い、独り生きることになろうとは。」の意。「獨飛」は「連れを失った鳥が独り飛ぶこと」をいう。「半路」は「人生の半ば」の意。「生か」は生きる意の動詞「生く」の未然形。「生く」は、平安中期頃から上二段活用に転じるが、奈良時代は四段活用であった。
「蘭室(らんしつ)」は「よい香りのする部屋」の意で、「立派な人の居室、また、婦人の居室」についていう。
「屏風(へいふう)徒(いたづ)らに張り」は「屏風が空しく立ち」の意。主を失い不用のものとなった屏風が残っている様子をいう。
「枕頭(ちんとう)に明鏡(めいきやう)空しく懸(かか)り」は「枕元には見る人のなくなった明鏡がかかっており」の意。
「染筠(せんゐん)の涙(なみた)」は「竹を染めるほどの涙。配偶者を失った嘆きの涙。」をいう。井村『萬葉集全注』は「博物志、述異記などに見える故事 ― 帝舜(しゅん)が南方で死に、蒼梧(そうご)(広西省東部梧州)に葬った。后妃の娥皇(がこう)・女英の姉妹が後を追って洞庭の山・湖水に至ったが、二人の落涙がそこに生えていた竹を染め、それが今の斑竹(はんちく)、涙竹(るいちく)であると。」と記している。
「泉門(せんもん)」は「黄泉(よみ)の国の門。あの世への入り口」をいう。
 以上で、文の語釈は終えた。以下、詩については次回に続くこととする。
タグ:万葉集
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2016年06月29日

『万葉集』を訓(よ)む(その1058)

 今回は、794番歌の前に載録されている山上憶良の作と考えられる詩文を訓む。
 原文は次の通り(句読点は『日本古典文学大系』による)。

 盖聞、四生起滅、方夢皆空、三界漂流喩環不息。所以、維摩大士在于方丈、有懐染疾之患、釋迦能仁、坐於雙林、無免泥洹之苦。故知、二聖至極、不能拂力負之尋至、三千世界、誰能逃黒闇之捜來。二鼠競走、而度目之鳥旦飛、四蛇争侵、而過隙之駒夕走。嗟乎痛哉。紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅。何圖、偕老違於要期、獨飛生於半路。蘭室屏風徒張、断腸之哀弥痛、枕頭明鏡空懸、染筠之涙逾落。泉門一掩、無由再見。嗚呼哀哉。

 愛河波浪已先滅、
 苦海煩悩亦無結。
 従来厭離此穢土。
 本願託生彼浄刹。

 これを訓み下すと、次の通り。

 盖(けだ)し聞く、四生(ししやう)の起滅(きめつ)は夢(いめ)の皆(みな)空しきが方(ごと)く、三界(さんがい)の漂流(へうる)は環(たまき)の息(や)まぬが喩(ごと)し。このゆゑに、維摩大士(ゆいまだいし)は方丈(ほうぢやう)に在りて、染疾(ぜんしつ)の患(うれ)へを懐(むだ)くこと有り、釋迦能仁(しやかのうにん)も雙林(さうりん)に坐(いま)して、泥洹(ないをん)の苦しびを免(まぬか)るること無し。故(かれ)に知りぬ、二聖(にしやう)の至極(しごく)すらに、力負(りきふ)の尋ね至ることを拂(はら)ふこと能(あた)はず、三千世界に誰か能(よ)く黒闇(こくあん)の捜(あなぐ)り來(きた)ることを逃れむ。二鼠(にそ)競(きほ)ひ走りて、目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四蛇(しじや)争(いそ)ひ侵(をか)して、隙(ひま)を過ぐる駒(こま)夕(ゆふへ)に走る。嗟乎(ああ)痛(いた)ましき哉(かも)。紅顏(こうがん)は三従(さんじゆう)と共に長(とほ)く逝(ゆ)き、素質(そしつ)は四徳(しとく)と永(とこしへ)に滅びぬ。何そ圖(はか)らむ、偕老(かいらう)の要期(えうご)に違(たが)ひ、獨飛(どくひ)して半路(はんろ)に生かむことを。蘭室(らんしつ)に屏風(へいふう)徒(いたづ)らに張り、断腸(だんちやう)の哀(かな)しび弥(いよよ)痛く、枕頭(ちんとう)に明鏡(めいきやう)空しく懸(かか)り、染筠(せんゐん)の涙(なみた)逾(いよよ)落つ。泉門(せんもん)一たび掩(と)ざされて、再(また)見るに由(よし)無し。嗚呼(ああ)哀(かな)しき哉(かも)。

 愛河(あいが)の波浪(はらう)は已先(すで)に滅(き)え、
 苦海(くかい)の煩悩(ぼんなう)も亦(また)結ぼほるること無し。
 従来(もとより)此の穢土(ゑど)を厭離(えんり)す。
 本願(ほんぐわん)生(しやう)を彼(か)の浄刹(じやうせつ)に託(よ)せむ。
 
以下、順に語句の意について記すと、

「盖(けだ)し聞く」は「まさしく以下のように聞いている」の意で、発語の辞。
「四生(ししやう)」は、生きとし生けるものを表す仏教語で、あらゆる生物をその生まれ方で次の四種に分けて言ったもの。すなわち卵生(鳥類)・胎生(哺乳類)・湿生(魚・亀・蛙など)・化生(蝉・蝶など変態する類)をいう。
「起滅(きめつ)」は「生じると亡びる。生死。」の意。
「方」「喩」を「方(ごと)く」「喩(ごと)し」と訓んだが、それは『日本古典文学大系』の補注に「『方』は『比』と同じく、『ごとし(如・若)』の意(文選より例を挙げているが省略)。『喩(タトフ)』もこれに同じ。勿論意味をまちがえない以上は、『方』『喩』ともにタトフと訓んでもよい。」とあるによる。
「三界(さんがい)」は、法華経をはじめ、仏典の常用語で、「いっさいの衆生の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の迷いの世界、すなわち、欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)」をいう。
「環(たまき)」は、腕輪。単に「わ」と訓み、丸い輪の意とするものもある。「三界ノ内ニ循環スルコト、ナホ汲ム井ノ輪ノ如シ」(『身観経』)。
「維摩大士(ゆいまだいし)」は、「維摩」が「維摩詰(ゆいまきつ)」をさし、「大士」は仏・菩薩の尊称で、維摩経に登場する主人公。古代インドの毘舎離(びしゃり)城に住んだとされる大富豪で、学識に富み、在家(ざいけ)のまま菩薩の道を行じ、釈迦の弟子としてその教化を助けたといわれる。
「方丈(ほうぢやう)」は、維摩大士の居室。その居室は一丈四方であったと言われ、後世僧坊を方丈というのは、これにもとづくとも言う。
「染疾(ぜんしつ)の患(うれ)へ」は「罹病の苦しみ」の意。
「釋迦能仁(しやかのうにん)」は、釈迦牟尼(むに)の漢訳名の一つ。能満(のうまん)、能寂(のうじゃく)とも。
「雙林(さうりん)」は、釈迦が入滅した沙羅双樹の林をさす。釈迦が入滅した時、四方二本の計八本の沙羅の木のうち、四本は枯れ四本は花を咲かせたため、四枯四栄樹(しこしえいじゅ)とも言われ、悲しみのために林が白色に変じて白鶴の群れのように見えたところから鶴林とも言う。
「泥洹(ないをん)」は、涅槃に同じで、種々の苦悩を離脱した安楽の世界。ここは「死」の意。
「二聖(にしやう)の至極(しごく)」は、徳の極まった二聖、すなわち釈迦と維摩詰の二人を指す。

 語句解説の途中だが、以下は次回に続くこととする。
タグ:万葉集
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2016年06月28日

『万葉集』を訓(よ)む(その1057)

 今回から、巻五に進む。今回は、793番歌を訓む。題詞に「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」とあり続いて「禍故重疊、凶問累集。永懐崩心之悲、獨流断腸之泣。但依兩君大助、傾命纔継耳。[筆不盡言、古今所歎。]」と漢文で記されている。これらを訓み下すと、「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほともきやう)の凶問(きようもん)に報(こた)ふる歌一首。禍故(くわこ)重疊(ちようでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたぶる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐(むだ)き、獨(ひと)り断腸(だんちやう)の泣(なみた)を流す。ただ、兩君(りやうくん)の大助(たいじよ)に依(よ)りて、傾命(けいめい)をわづかに継(つ)げらくのみ。[筆(ふで)の言(こと)を盡(つ)くさざるは、古今(ここん)歎(なげ)く所なり。]」となる。「大宰帥大伴卿」は大伴旅人をさす。「禍故」は、禍・故ともにわざわいの意で、「不幸な出来事」をいう。「凶問」は「死去の知らせ」の意。「禍故重疊し、凶問累集す」は、妻大伴郎女の死という不幸に加え、同母弟宿奈麻呂など旅人の親しい人々の死去の知らせが相次いだことをいう。「崩心の悲しび」は「心がくずおれるような激しい悲しみ」の意。「断腸の泣」は「腸が千切れるような激しい悲しみの涙」をいう。「兩君」は、旅人に凶問をもたらした者であり同時にこの返簡 の受取人であるが、氏名は不明。阿蘇『萬葉集全歌講義』は「両君の大助」について「『両君』は、異母弟稲公と甥胡麻呂説(私注)があり、井村哲夫氏全注も支持する。『大助』は、大いなる助力の意であるが、具体的には、太宰府にいる旅人に代わって、大伴氏の公私にわたる事務処理などをいう。稲公と胡麻呂は、天平二年六月、旅人が脚にできものが出来て苦しんだ時、遺言をするために下向を朝廷に願い出た二人であった(4・五六七注)。」と注している。「傾命」は「気力・生命力共に傾きかけた命」の意で、老年に加えて相次ぐ不幸に見舞われた旅人の命を言ったもの。「わづかに」は「かろうじて」の意。「継耳」は「継ぐのみそ」と訓むものもあるが、「継げらくのみ」と訓む『萬葉集全歌講義』に「『継げらく』は、ガ行下二段活用の動詞『継ぐ』のク語法。『のみ』は、体言または体言相当の語につくのが古い用法。漢文訓読体では、ク語法を受けて、文を終止し感動をあらわすことがある。ここは後者の例。」とあるのを採った。
 写本に異同はなく原文は次の通り。本歌は全て一字一音の仮名書きである。なお、作歌年月が歌の後ろに記されている。

  余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
   神龜五年六月二十三日

 1句「余能奈可波」は「よのなかは(世の中は)」と訓む。「余」「能」「奈」「可」は各々、ヨ(乙類)音・ノ(乙類)音・ナ音・カ音の常用音仮名で、「奈」は片仮名・平仮名の字源。「余能奈可」で以って「世の中」を表す。「世の中」は、「現世」の意。「波」はハ音の常用音仮名(平仮名の字源)で、係助詞「は」。この句は、442番歌1句及び478番歌21句に「世間者」の表記で既出。
 2句「牟奈之伎母乃等」は「むなしきものと(空しきものと)」と訓む。「牟」はム音の常用音仮名(片仮名の字源)、「奈」は1句に既出、「之」はシ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「伎」はキ(甲類)音の常用音仮名。「牟奈之伎」で以って、シク活用形容詞「むなし」の連体形「空しき」を表す。「むなし」は「頼るに足る確かなものではない。かりそめである。はかない。」の意。「母」はモ音、「乃」はノ音の常用音仮名で、「乃」は片仮名・平仮名の字源。「母乃」で以って、形式名詞「もの」を表す。「等」はト(乙類)音の常用音仮名で、格助詞「と」。この句も442番歌2句に「空物跡」の表記で既出。「世の中は空しきもの」というのは、仏典語の「世間空」「世間虚仮」の思想と同じ。
 3句「志流等伎子」は「しるときし(知る時し)」と訓む。「志」はシ音の常用音仮名、「流」はル音の常用音仮名(片仮名の字源)で、「志流」はラ行四段活用の他動詞「しる」の連体形「知る」を表す。「等」「伎」は2句に既出で、「等伎」は「時」を表す。「子」はシ音の音仮名で、副助詞「し」。
 4句「伊与余麻須万須」は「いよよますます」と訓む。「伊」はイ音の常用音仮名(片仮名の字源)、「与」はヨ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「余」は1句に既出で、「伊与余」は、副詞「いよよ」を表し「いよいよ。ますます。そのうえに。」の意。「麻」と「万」は共にマ音の常用音仮名、「須」はス音の常用音仮名(片仮名の字源)で、「麻須万須」は、副詞「ますます」を表す。「ますます」は、動詞「ます(増)」の終止形を重ねた語で、「量や程度がふえたり、はなはだしくなったりするさまを表わす語。増加していっそう。いよいよ。」の意。
 5句「加奈之可利家理」は「かなしかりけり(悲しかりけり)」と訓む。「加」はカ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「奈」「之」「可」は1・2句に既出、「利」はリ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)。「加奈之可利」は、シク活用形容詞「かなし」の連用形「悲しかり」を表す。「家」はケ(甲類)音の常用音仮名、「理」はリ音の常用音仮名で、「家理」は、回想(気づき)の助動詞「けり」を表す。 
 793番歌のひらかな文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  よのなかは むなしきものと しるときし
  いよよますます かなしかりけり

  世の中は 空しきものと 知る時し
  いよよますます 悲しかりけり

  世の中は 空しいものだと つくづく知る時に
  さらにいっそう しみじみ悲しく思いました
タグ:万葉集
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