2017年02月26日

『万葉集』を訓(よ)む ー閑話休題(その36の2)ー

 今回は前回の閑話休題の続きで、稲岡耕二「巻五の論」の第一章序論・三「梅花歌の筆録」の引用を続けたい。

 ところで、梅花歌群の表記に、注目すべき徴証が全くみられないか、と考えた場合に、いくつかの点が目に付く。そのひとつは、「宜」の仮名の在り方である。一連三十二首の内、「宜」は三回現われる。
 a 世の中は古飛斯宜(○)志恵夜かくしあらば梅の花にもならましものを(八一九)
 b うちなびく波流能也奈宜(○)等わがやどのうめの花とを如何にか分かむ(八二六)
 c 波流楊那宜(○)かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒杯の上に(八四〇)
 a は「恋繁し」のゲ(乙)の表記に宛てられたものであるが、b c はともに柳のギ(乙)の表記に宛てられている。同歌群の仮名の中で、「伎」や「倍」等を清濁両様に使用する場合を除けば、単一の仮名を異なる字音表記に宛てた珍しい例として注目されるのである。
 宜(ゲ)にしても、宜(ギ)にしても集内の他の巻に例のないものではない。巻二・巻十八・巻十九にはゲ(乙)の例があるし、巻六・巻十四・巻十五にギ(乙)の例を拾うことができる。だから、巻五に宜(ギ)・宜(ゲ)双方の例がみられることに何の不思議もなさそうであるが、巻五のこの梅花歌の場合以外に、同一巻内にギ(乙)・ゲ(乙)両種の用例が共存することはない。また作者別にみても双方が同一作者の歌にともに見出される例はない。これは意味のあることと思われる。宜が、ガ・ギ・ゲ三種の音仮名として上代文献に現われるのは、漢字原音の変化にもとづいており、ガが古く、ギが新しい(『日本語の歴史』第二巻参照)。ゲはその中間の段階というべきもので、巻五の憶良の歌では、終始ゲ(乙)の仮名として現われる。a の大伴大夫の歌でも同様な用法をみるのであるが、b の大典史氏大原の歌と c の壹岐目村氏彼方の歌には、新しいギ(乙)の音表記例をみる。これを、同一人の単独の筆録とみることは、難しいのではあるまいか。一個人の筆録とすれば、なにゆえにかく紛らわしい仮名遣いをしたのかが問題となろうし、それに対して明確な解答は得られないであろう。単一の筆者の、特定の時点における表記中に、一つの文字を全く別の音表記に宛てる不都合さは、今日われわれの想像する以上のものがあったであろうと思う。集内における宜(ギ)・宜(ゲ)の巻別の截然たる区分も、憶良作歌における一貫したゲ(乙)の仮名用法も、「宜」をギ・ゲ双方に用いる知識の欠如を示すものというより、合理的かつ的確な表記を目ざす録者の選択意識の反映とみるべきものであろう。そう考えることが正しいとすれば、梅花歌群の中には、少なくとも前掲 a と b 、あるいは a と c という同一人の筆録を考ええない歌々を含むことになる。単に珍しい仮名字母が誰の歌に含まれ、誰の歌にみえないといった 見かけ上の相違でなく、仮名使用上の排他的徴証の一つをそこに指摘しうるわけである。

 以上のように、梅花歌群の一連三十二首の内に三回現われる「宜」の用法から、少なくとも梅花歌三十二首は、単独筆録されたものではないことが証明された。しかし、「右のことだけでは、単独筆録を否定しえても、複数の記録者を想定しさえすればそれで済むことだろう。三十二首の記録なら、ありそうなことにも思われる。」と稲岡自身が言うように、個々の作品がそれぞれの作者の筆録であるとするためにはこれでは不足である。そのための徴証を求めて稲岡はさらに論を進めて、次のように述べる。

 もっと別の徴証はないか。もう一度、大伴大夫の歌を今度はすべてを原文のまま抜き出してみることにしよう。
 a 余能奈可波古飛斯宜志恵夜加久之阿良婆烏梅能波奈尓母奈良麻之勿能怨(八一九)
これに、次のような歌も注意される。
 d 梅の花知良麻久怨之美我が園の竹の林に鶯鳴くも(八二四)
 e わが宿の梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも知良麻久乎之美(八四二)
 大伴大夫歌( a ) で、さらに私の注目を惹くのは、「奈良麻之勿能怨」の「怨」である。万葉集内で、 a d 二歌のみにみえ、現存上代文献では他にみられない仮名である。特殊な、珍しい仮名なのであるが、特殊であることは、必ずしも単独筆録を否定もしないし、また肯定もしない。たまたま a d の歌の表記には「怨」を用い、 e などの歌ではヲの表記に平易な「乎」を用いたにすぎないともいえる。しかし、a d の「怨」が、読者に語りかけ、訴えかけてくるのは、もっと別のことのようである。怨は周知のように恨・悲、あるいは憎の意を有する文字である。それを意識しながら「奈良麻之勿能怨(○)」あるいは「知良麻久怨(○)之美」という風に、a d の歌の記録者は記していると思われる節がある。「梅の花にもならましものを」といいつつも、なりえない恨みや悲しみを強調するのが、この文字面なのであろう。「奈良麻之勿能乎」では満足しえない抒情の補足機能を、「怨」の一字が負っている。他の文献にはみえず、万葉集でも a d の二歌のみに使用されているにすぎないという特殊な仮名が、ここに使われている理由もおそらくそうした仮名の視覚的効果にあろう。
 d は、そうした点が、もっと判然としているといえるかもしれない。小監阿氏奥島の歌であるが、梅の花の散るのを惜しんで庭園の竹の林で悲しみ鳴く鶯が、奥島の歌う鶯なのである。これに対して二句まで共通の高氏海人の e の歌はどうか。e は「梅の下枝に遊びつつ」と歌う。この上句に「知良麻久怨(○)之美」とは続かないだろう。恨みあるいは悲しんで鳴く鶯ではなく、「遊びつつ」梅の花の散るのを惜しみ鳴く鶯こそ、海人の歌った鶯である。類句の関係にありながら、「知良麻久怨(○)之美」と「知良麻久乎(●)之美」というわずか一字の仮名の異なりが、d e 二歌の鶯の風姿を画然と区別しているのが、むしろ驚きをすら感じさせもする。私の素朴な疑問は、これほど歌の内容に即し、作者の抒情に密着した仮名選択を、第三者としての記録者がはたして成しえたかどうかという点にある。表記が創造の内実にかかわるといえば、すべての歌の表記がそうだとも考えられようが、一歩間違えば内容をそこないかねないきわどい仮名の選択、しかも珍しい字母選択を、第三者がかように的確に成しえたとすることに、多少の疑問を禁じえない。先のゲ(乙)・ギ(乙)の宜とともに考える時、a の歌の表記は、大伴大夫その人の文字選択にもとづくと考えるほうがふさわしいのではあるまいか。「宜」にしても「怨」にしても、きわめて局所的な徴証にすぎない。従って、梅花歌三十二首のすべてを覆いうるものではないから、全体については、厳密には不明といわざるをえないのだろうか。

 「宜」に続いて、「怨」という徴証を取り上げて、稲岡が進めた論理により、少なくとも八二四番歌の歌は、作者である大伴大夫その人の筆録であると言って間違いないと私は納得した。私は、八二四番歌の「怨」という仮名表記に違和感を覚えつつも「八四二番歌五句『知良麻久乎之美』を八二四番歌二句『知良麻久怨之美』と『を』の表記が異なるだけの同句。」と説明して済ませてしまったことを恥じるとともに、万葉歌人は「万葉仮名の視覚的効果」を十分意識して歌の表記を行なったという事実を今一度しっかり脳裏に刻んでおこうと思う。
 稲岡は、この後、同音表記にみられる傾向を同字再使用率によって調べたり、清濁両用の表記に用いられている仮名に注目したりして論を進め、梅花歌三十二首については、特定個人の筆録であるとは認めがたく、むしろ作者別の文字遣いを保存しているものであるとの認識を示している。そして梅花歌三十二首の作品成立の状況について次のように述べている。

 右のように考えうるとすれば、われわれは梅花歌群の成立について、一つの具体的な状況を想像することができる。ある特定の筆録者が、各人の吟誦する短歌を記録したのではなく、吟誦することはあったにしても、各作者が文字に定着することによって完了する、文学的営為の形を、それはとっていたのであろう。旅人が序文を記し(序の作者についても異説があるが)、朗読後にそれを紀卿にまわす。大弐は自作和歌を吟誦の上、第一首としてそれを記す。次に小弐小野老の手許へ、という風に作品は「読む」行為を伴いながら増殖を続けたとみられる。ト(乙)の仮名として「得」が現われると、部分的にそれが連続したり、「斯」がある程度かたまってみられるのも、また土居光知氏の指摘された「烏梅」の準統一的表記も(土居氏は、表記上の約束があったかと推量されているが、とりきめにしては旅人歌の「宇米」がおかしい)、こうした作品成立の具体的状況において、無理なく解されるものと思う。

 以上、稲岡の論を長々引用してきたが、十分説得力のあるものと思う。なお、引用した部分は「序論」であり、「各論」の「九 梅花歌三十二首」により詳細な論述があるので、興味のある方は参照されたい。
タグ:万葉集
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2017年02月22日

『万葉集』を訓(よ)む ー閑話休題(その36の1)ー 

 前回まで、「梅花歌卅二首」を訓んできたが、今回は閑話休題として、この歌群に関する研究論文についての紹介を行うとともに、万葉仮名の用字に関わる問題として「筆録者の問題」について述べてみたい。
 まず、伊藤博『萬葉集釋注』が、この歌群についてのまとめとして述べている部分を見てみよう。

 余韻をとどめて、園梅の集いは終わった。宴終わって、三々五々散っていく人びとの、感慨ひとしおの表情が見えるような気がする。何とも高雅な、それでいてうちとけて楽しい集いであったことか。現代の読者も、古代万葉の世に、このように心の行きとどいた歌の会があったことに、とくと目を注ぐべきである。
 横にいる人、前にいる人の歌詠に気を配ることは、日本の短歌が民謡として起こったそもそものしきたりであったらしい。それが順次洗練されて、天平大宰府の集宴では、三二首もの緊密なまとまりとなって花を開いた。一首一首には、取り立てて季吟とすべき作は少ない。けれども“園梅の賦”という課題のもとでは、どれもそれぞれ位置を占め、互いは互いの関連において呼吸し、そして輝いている。これまた、集団の中から任意に一首を取り出して行う鑑賞法が、『万葉集』の本来の姿にとっていかに危険であるかを端的に教える一例といえよう。
 三二首に序文をつけて紙上にまとめる時、ある歌々について手が加えられなかったという保証はない。しかし、実際の詠歌活動において呼応連鎖の関係がないものについて、結果としてこれだけの響き合いを脚色することはできないはずだ。
 三二首は、天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府旅人宅において、本質的に、見られるとおりの風雅を達成したと考えてよい。三十二人が相継いで詠をなして、乱れぬ体系を完結した。これは驚くべき営みである。万葉歌はここまで発達しており、それは、人間が集団として生きる場合の、生きざまの貴重な模範ともなるであろう。
 以上、梅花の歌三二首に対する考察は、拙稿「園梅の賦」(『万葉集の歌人と作品』下第八章第四節)に基づいて展開されたものである。が、この考察について同調しながらも、別途の見解を繰り広げるものに、大久保広行「梅花の宴歌群考」(都留文科大学研究紀要9)、同「わが園に梅の花散るー発想の重層性をめぐってー」(都留文科大学国文学論考10)、同「梅の花今盛りなり」(都留文科大学紀要10)、山崎良平「『梅花の歌32首』の構成について」(高知女子大学保育短期大学紀要1)、後藤和彦「梅花の歌三十二首の構成」(『万葉集を学ぶ』第四集)などの論がある。一方、筆者などの考察に基本的に賛成しない論に、植垣節也「梅花の歌三十二首考」(兵庫教育大学研究紀要1)がある。なお、三二首の筆録についても、橋本達雄「万葉集巻五の筆録者について」(『万葉集の作品と歌風』)、稲岡耕二「巻五の論」(『万葉表記論』)、原田貞義「梅花歌三十二首の成立事情」(万葉第五十七号)などに考察があって、それぞれ主張を異にしている。 

以上、引用した中で、前半のところで、伊藤が、「集団の中から任意に一首を取り出して行う鑑賞法が、『万葉集』の本来の姿にとっていかに危険であるか」ということを指摘しているが、確かに「梅花歌卅二首」は、一首だけを取り出して鑑賞するのではなく、序文を含め三二首を一つの作品として鑑賞して初めて、その文学的価値を認識できるものだと思う。
 引用の後半では、この歌群を考察した論文が紹介されているが、そこでは、歌の配列と当日の宴会の「座」の関係などを論じたものに加えて、三二首の筆録についての論文も紹介されている。その中で、万葉仮名の用字に関わる問題として「筆録者の問題」を取り上げている、稲岡耕二「巻五の論」の第一章序論・三「梅花歌の筆録」が興味深いので紹介しておきたい。

 単独の筆録者を想定しうるか、それとも、個々の作品がそれぞれの作者の文字遣いを残すものであると考えうるか、といった二者択一の課題は、梅花歌の用字の帰趨にも象徴的に現われているようにみえる。といっても私は、巻五全体についての用字継続の問題(本章冒頭から用いているように、誰の文字遣いを残すかをいう)と、梅花歌三十二首のそれとが本質的に全く等しい性格の課題だと考えているわけではない。梅花歌は、三十二首が一群をなす、いわば大宰府圏歌人群の共作ともいうべき歌群である。その成立、言い換えれば文字化が、いかなる経緯を持つものかについては、独自の成立論的な問題性をはらんでもいよう。各人が吟誦する歌を特定の筆録者が記録することにより、文字文学として定着をみたものとすれば、用字論の射程内に各作者の介入する可能性は全くないことになる。編者の書き改めとは次元の異なる問題が、そこには考えられるのである。
 右のような相違を無視し、単独の筆録者を想定しうるか、あるいは作品個々の文字遣いを作者に属せしめうるかの問題として、共通の問題性をあえて指摘するのは、係属決定の論理過程において、従来の論の不備を等しく認めるからにほかならない。もちろん、私の旧稿を含めてのことである。
 ある作品の文字遣いが作者個人に属するものであることを保証する論理とは、いかなるものか、について最も先鋭な解答を要求されるところが、梅花歌三十二首であるといってもよい。あるいは逆に、一連三十二首が単独の筆になることを証する論理を要求されると言いなおしても、右の裏返しにすぎない。
 (中略)
 従来、この歌群の用字について、(1)各歌別すなわち各作者の文字遣いが残されている、と判断する説と、(2)統一的な筆録者を想定しうる、とする説とが対立してきたのは、そのいずれにも明確な論証の欠けていたことを示しもする。稲岡旧稿(国語と国文学昭和三十五年六月・七月)に「この三十二首は、用字上特殊な文字(例えば汗、義、遇、素など)もあり、しかもモの表記もまちまちである点からも、一人の用字を示すものでなく、各個人の用字を示すものと思われる」とのみ記すのは、難問の論理的処理を避けているといわれても仕方のないものである。土居光知氏が『歌に用いられた文字は各人によって相違している』ことを理由に、単独の記録者を否定されたのも、漠然としていて説得的ではない。当然反論が予想しうる。

 以上のように述べた後、橋本達夫「万葉集巻五の筆録者について」が、「梅花歌群における『特殊用字』の散在を、各作者の用字上の趣向とせず、『最初から或一人が筆録した』結果である」としていることを紹介し、それは「土居・稲岡両論と、ほぼ等しい字母に注目しながら逆の推論を導いたものである。」として。続けて次のように述べている。

 梅花歌三十二首の表記に動員された仮名字母は百三十種にのぼり、憶良の神亀五年の長歌四首、短歌八首の仮名百十九種を超える。それだけ多彩な仮名表記が梅花歌では示されているといえる。原田貞義氏が「旅人・憶良両者の用字を加えたものより更に広きにわたっている」と言われるのも(「梅花歌三十二首の 成立事情」万葉五十七号)この歌群の仮名の多様さに注目してのことである。
 等しく特殊な態様に注目しながら、態様の解釈において反対の結論が導かれるのは、先にも言ったように、用字の係属決定の論理的不備によるであろう。木下正俊氏も言われるように「わずか数首の歌を材料として、そこに見えるxならxという仮名が、ある歌人の専用仮名だと言いきれる場合はめったにない」(古典文学全集万葉集二の補論)のであり、その意味で「特殊な文字」とは何か、およびそれが表記者決定の条件となりうるか否か、が精密に測定されねばならない。従来の梅花歌に関する論議は、必ずしもそうした検討に十分堪えうるものとはいえないであろう。自戒をこめて記しておきたい。

 以上のように、従来の論議についての概括と反省の弁を述べた後、梅花歌の表記の、注目すべき徴証をあげて論を展開していくのだが、それについては次回に紹介することとする。
タグ:万葉集
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2017年02月20日

『万葉集』を訓(よ)む(その1135)

 今回は、846番歌を訓む。「梅花歌卅二首」の最後の三十二首目。作者は「小野氏淡理(をのしのたもり)」。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「小野氏淡理(たもり) 天平十九年正月に、正六位上より従五位下に叙せられ、天平勝宝元年閏五月に大宰少弐に任ぜられ、後、遣新羅大使・遣渤海大使にもなった小野朝臣田守と同一人説(新大系)、同一人か、とする説(全註釈・日本古代人名辞典など)もあるが、明らかでない。」とある。また、伊藤『萬葉集釋注』は、作者と本歌について次のように述べている。
 
 作者小野氏淡理は、いかなる次第で当時大宰府にいたのか、旅人とどういう関係にあったのか、すべて不明である。しかし「淡理」は「田守」の中国式表記で、これは、旅人が「旅人」を「淡等」と書いたのと共通する。時代の風とはいえ、淡理が旅人に心酔し、旅人もまた淡理に信を寄せていた事情が窺えるような気がする。
 淡理は、この日の宴で、総幹事役を仰せつかり、万端の進行係を務めたのではなかろうか。歌は、その立場からなされたもので、一日中かざしにかざしてもますます心引かれてしまう梅の花とは、尽きぬ名残をとどめて一座をしめくくる名言といってよいであろう。

 伊藤はこのように述べて、本歌を「梅花歌卅二首」の締めくくりの歌にふさわしいとして高く評価している。
 写本に異同はなく、 原文は次の通り。

  可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 
  伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛
                  [小野氏淡理]

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名ではモ音の「毛」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、イ音の「伊」・ス音の「須」・タ音の「多」・ル音の「流」・ヲ音の「乎」が、そして平仮名の字源となった常用音仮名では、ハ音の「波」・ミ(甲類)音の「美」が使われている。その他の常用音仮名としては、カ音の「可」・ガ音の「我」・キ(甲類)音の「岐」・セ音の「勢」・ツ音の「都」・ド(乙類)音の「杼」・ナ音の「那」・ノ(乙類)音の「能」が使われ、準常用音仮名ではレ音の「例」が、そして音仮名では、ウ音の「烏」・ザ音の「謝」・シ音の「子」・ヒ(甲類)音の「卑」・メ(乙類)音の「梅」・ヤ音の「野」が使われている。

 1句「可須美多都」は「かすみたつ」と訓む。この句は5番歌1句「霞立」と同句で、その仮名書き。「可須美」は「かすみ(霞)」。「多都」は、タ行四段活用の自動詞「たつ(立つ)」連体形。「霞」は本来「夕やけどきなどに、遠くたなびく霧」のことであるが、「霞が立つ」→「ぼやけてはっきりしなくなる」ことを「かすむ」と言った。「かすみ」はこの動詞「かすむ」の連用形が名詞化したものである。同様に「霧が立つ」→「はっきり見えなくなる」をあらわす「きる」という動詞の連用形が「きり」。古くは「かすみ」と「きり」は同様の現象を表わすものとして、季節にも関係なく用いられたが、『万葉集』では、「かすみ」は春、「きり」は秋のものとする傾向があらわれてくる。そして『古今集』以後は、はっきりと使い分けられるようになる。
 2句「那我岐波流卑乎」は「ながきはるひを」と訓む。この句も5番歌の2句「長春日乃」の類似句で、「那我岐波流卑」は「長春日」の仮名書き。「那我岐」は、ク活用形容詞「ながし(長し)」の連体形「ながき」。「ながし」は「時間について、ある時点から連続している他の時点までのへだたりが、相対的に大きいさま。」をいう。「波流卑」は、「はるひ(春日)」で、文字通り「春の日」。「乎」は格助詞「を」。
 3句「可謝勢例杼」は「かざせれど」と訓む。「可謝勢例」は、サ行四段活用の他動詞「かざす」の已然形(音韻上は命令形)の「かざせ」+完了の助動詞「り」の已然形「れ」=「かざせれ」。「杼」は活用語の已然形について逆接の既定条件を示す接続助詞「ど」。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「『かざしあれど』の約。かざしているが、の意。」とあるが、完了の助動詞「り」が四段活用の動詞の連用形と、それを承ける「あり」との音韻融合によって生じたものであることを述べたものと考えられる。
 4句「伊野那都可子岐」は「いやなつかしき」と訓む。「伊野」は、786番歌他に「弥」の表記で既出の副詞「いや」を表す。接頭語「い」に、物事のたくさん重なる意の副詞「や」が付いてできた語で、事柄や状態がだんだんはなはだしくなるさまをいう。「いよいよ。ますます。」の意。「那都可子岐」は、663番歌に「夏可思吉」の表記で既出、シク活用形容詞「なつかし」の連体形「なつかしき」を表す。「なつかし」は、動詞「なつく(懐く)」の形容詞化で、古くは、身近にしたい、馴れ親しみたいの意を表し、後世、多く懐旧の思いをいうようになる。ここでは663番歌と同じく、「心がひかれ、離れたくないさま。愛着を覚えるさま。魅力的だ。慕わしい。」の意で用いられている。
 5句「烏梅能波那可毛」は「うめのはなかも」と訓む。この句は、828番歌の5句「烏梅能波奈加母」及び844番歌の5句「烏梅能波奈可毛」と一部表記は異なるが同句。「烏梅能波那」は、「うめのはな(梅の花)」。「可毛」は、詠嘆の終助詞「かも」。
 846番歌の平仮名文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  かすみたつ ながきはるひを かざせれど 
  いやなつかしき うめのはなかも

  霞立つ 長き春日を かざせれど
  いやなつかしき 梅の花かも

  霞がかかっている 長い春の日の一日中 髪に挿しているけれど
  ますます慕わしい 梅の花ですよ
タグ:万葉集
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