2017年05月03日

『万葉集』を訓(よ)む(その1160)

 今回は867番歌を訓む。「吉田宜(きちだのよろし)の書状」に添えられた歌四首の四首目。前歌(866番歌)と同じく「あなた(旅人)を思う気持ちがまだ尽きなくて、さらに(宜が)詠んだ歌」である。本歌の左注に「天平二年七月十日」があるので、「吉田宜(きちだのよろし)の書状」とそれに添えられた歌四首は、その日に送られたものであることがわかる。
 写本の異同は、2句三字目<我>と5句の末字<里>にある。『西本願寺本』以下の諸本に2句三字目を「家」、5句の末字を「理」としているが、『類聚古集』『紀州本』『細井本』にそれぞれ「我」、「里」とあるのを採る。原文は次の通り。

  枳美可由伎 氣那久奈理奴
  奈良遅那留 志満乃己太知母
  可牟佐飛仁家<里>

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、コ(乙類)音の「己」・ク音の「久」・ナ音の「奈」・ヌ音の「奴」・ノ(乙類)音の「乃」・ユ音の「由」・ラ音の「良」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名ではム音の「牟」が、平仮名の字源となった常用音仮名では、チ音の「知」・ニ音の「仁」・ミ(甲類)音の「美」・ル音の「留」が使われている。その他の常用音仮名としては、カ音の「可」・ガ音の「我」・キ(甲類)音の「伎」・ケ(甲類)音の「家」・ケ(乙類)音の「氣」・サ音の「佐」・シ音の「志」・ダ音の「太」・ヂ音の「遅」・ナ音の「那」・モ音の「母」・リ音の「理」と「里」が使われ、音仮名では、ガ音の「可」・キ(甲類)音の「枳」・ビ音の「飛」・マ音の「満」が使われている。

 1句「枳美可由伎」は「きみがゆき」と訓む。この句は、85番歌及び90番歌の1句「君之行」と同句で、その仮名書き。「枳美」は「きみ(君)」でここ大伴旅人を指す。「可」はカ音の常用音仮名であるが、ここはガ音の音仮名として用いたもので、連体助詞「が」を表す。「由伎」は、動詞「ゆく(行く)の連用形の名詞化した「ゆき(行き)」で、「旅に出ること。旅行。」の意。 ここは、旅人の大宰帥赴任のことを言う。
 2句「氣那我久奈理奴」は「けながくなりぬ」と訓む。この句も、85番歌2句「氣長成奴」及び90番歌2句「氣長久成奴」と同句で、その仮名書き。
「氣」は、ケ(乙類)音の常用音仮名で、日数の意の「日(け)」を表わす。「日(け)」は、日(ひ)の複数で、二日以上にわたる場合に用いる。「那我久」は、ク活用形容詞「ながし(長し)」の連用形「ながく」を表す。「奈理奴」は、ラ行四段活用の自動詞「なる(成る)」の連用形「なり」+完了の助動詞「ぬ」=「なりぬ」を表す。「なる」は、「その時刻や時期に達する。その時に至る。また、時が経過する。」ことをいう。
 3句「奈良遅那留」は「ならぢなる」と訓む。「奈良遅」は、「ならぢ(奈良路)」で、「奈良に通じる道。また、奈良地方を通っている道。」をいう。「那留」は、指定の助動詞「なり」の連体形「なる」。
 4句「志満乃己太知母」は「しまのこだちも」と訓む。「志満」は「しま(山斎)」。「山斎(しま)」は、旅人作の452番歌に既出で、「築山や池のある庭園」の意。「乃」は連体助詞「の」。「己太知」は「こだち(木立)」で、「生い茂っている木。むらがり立っている木。立木。」の意。「母」は係助詞「も」。
 なお、3句・4句について、井村『萬葉集全注』の【考】に詳しく述べられている。後ろに[参考]として引用しておいたので参照されたい。 
 5句「可牟佐飛仁家里」は「かむさびにけり」と訓む。「可牟佐飛」は、バ行上二段活用の自動詞「かむさぶ(神さぶ)」の連用形「かみさび」。「かむさぶ」は、「神々(こうごう)しい様子を呈する。古色を帯びて神秘的な様子である。古めかしくおごそかである。」ことをいう。「仁家里」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「けり」=「にけり」で、すでに完了している事柄について、その事実にあらたに気づいた気持を表わし、詠嘆の気持を伴うことが多い。「…してしまった(ことよ)。…してしまっている(ことだなあ)。」の意。
 867番歌の平仮名文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  きみがゆき けながくなりぬ
  ならぢなる しまのこだちも
  かむさびにけり

  君が行き 日長くなりぬ
  奈良路なる 山斎の木立も
  神さびにけり

  あなたが筑紫へ行かれてから 随分久しくなりました
  奈良路にある 御庭の木立も
  古色蒼然となり神さびた様子です

[参考]井村『萬葉集全注』の【考】より

 奈良路なる山斎の木立 大伴邸は佐保(さほ)にあった。旅人の父安麻呂は佐保に住んで佐保大納言と呼ばれ(4・五二八左注他)、長子の旅人またその子家持も佐保の宅に居住した。少弐石川が旅人に呈した歌に、
  さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(6・九五五)
もある。旅人の妹坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が佐保の宅に在って作ったという歌に、「あしひきの山にし居れば」(4・七二一)ともあって佐保山に接していたらしい。大井重二郎氏(「佐保丘陵の権門」『万葉集歌枕の解疑』)は、「旧条里の一条四里辺で、長屋王宅より幾許か東に位置し、これに接して橘氏も居宅を構えた。現在の地形に即して云えば、常陸神社所在の丘陵地が考えられる。左京一条三坊の条坊区外で、南は一条南大路、即ち佐保大路が東西に通じて外京七坊の東京極に至る」と推定している。川口常孝氏(「奈良朝歌人の住宅考」『万葉集研究』第六集)に、法蓮山添東町、春日野荘と育英第二校舎の間というこまかい推定もある。
 大伴邸の庭園の結構は人の知るところであったようで、この宜の歌もあるのであろう。後年帰京して家に入った旅人は次のように歌っている。
  妹として二人作りしわが山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(3・四五二)
  我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る(3・四五三)
そうして旅人の造園趣味は、とりどりの植物を愛した家持はもちろん、その家持が、「この人、ひととなり花草花樹を愛(め)でて多く寝院の庭に植う」(19・三九五七自注)と評した弟書持(ふみもち)にも受け継がれたようである。
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 21:18| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする