2017年06月08日

『万葉集』を訓(よ)む(その1170)

 今回は877番歌を訓む。「書殿餞酒日倭歌四首」の二首目である。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  比等母祢能 宇良夫禮遠留尓
  多都多夜麻 美麻知可豆加婆
  和周良志奈牟迦

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、ウ音の「宇」・カ音の「加」・ナ音の「奈」・ネ音の「祢」・ヒ(甲類)音の「比」・ラ音の「良」・ワ音の「和」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、タ音の「多」・ム音の「牟」が、平仮名の字源となった常用音仮名では、チ音の「知」・ミ(甲類)音の「美」・ル音の「留」が使われている。その他の常用音仮名としては、カ音の「可」・シ音の「志」・ツ音の「都」・ヅ音の「豆」・ト(乙類)音の「等」・ニ音の「尓」・ノ(乙類)音の「能」・バ音の「婆」・ブ音の「夫」・マ音の「麻」・モ音の「母」・ヤ音の「夜」が使われ、準常用音仮名ではヲ音の「遠」が、音仮名では、カ音の「迦」・ス音の「周」が使われている。なお、「禮」は、レ音の常用音仮名で片仮名・平仮名の字源となった「礼」の旧字体である。又、準常用音仮名の「遠」は、平安時代には常用されるようになり平仮名の字源となった。

 1句「比等母祢能」は「ひともねの」と訓む。「比等」は「ひと(人)」で、大宰府に残った人々を指す。「母祢」は「もね」で、「みな(皆)」の方言だと思われる。「能」は格助詞「の」。
 井村『萬葉集全注』は、この歌の注に「第一句が難解。」として、次のように述べている。

 仙覚抄「ヒトモネノトハ、人ノオモヒネトイヘルニヤ。……トヽマル人ハ、モノ思フネヲナキテ、ウラミヲルニ……」はむつかしい。代匠記精撰本「毛ト牟ハ通ズレハ、一棟ト云ヘル歟。……一家ノ人ト云意ニヤ。……留守ノ人々一家コゾリテ待侘テウナダレ居ル所ニ、先立テ早立田山ヲ越給ヒテ御馬近付ヌト告ルヲ聞テハ、久シク侘ツル憂ヲモ忘レナン歟トナリ」は、一棟、一家の人という語釈にためらう。童蒙抄「人のむね也。……人のむねの内は、名残を惜みて悲しくなやみをるといふ意也」は人胸という語例が他になく、考「毛祢約米にて人目也、人目のうらぶるとは人の面のうらぶる也」は強引すぎる。略解所引宣長説「母祢は祢那を下上に誤り、又那を母に誤れるなるべし」、すなわち「比等祢那(ひとみな)」(人皆)の誤字とする説にもにわかに従えない。管見に「ヒトモネハ、人皆也。もね、みな共に五音かよへ利」と言い、攷証に「この巻にも国の法言をいへる事、これかれあれば、人皆の法言にてもあるべし」と言う。これに従って、次の八七八番「とのしくも」ともども方言訛言とみるほかによい案もないように思える。
 
 このように、諸説を紹介して、結論としては方言説をとるしかないとしている。
 2句「宇良夫禮遠留尓」は「うらぶれをるに」と訓む。「宇良夫禮」は、ラ行下二段活用の自動詞「うらぶる」の連用形「うらぶれ」。「うらぶる」は、しょんぼりと力なく、心のしおれるような状態をいう語で、「心うく思う。うれいしおれる。悄然(しょうぜん)とする。」ことを言う。「遠留」は、ラ行変格活用の自動詞「をり」の連体形「をる」。「をり」は、動詞の連用形に付いて、動作、作用、状態の継続、進行を表す補助動詞。「尓」は接続助詞「に」で、ここは逆接「…のに。…けれども。」の意。
 3句「多都多夜麻」は「たつたやま」と訓む。83番歌3句に「立田山」の表記で既出。「龍田山」とも書かれ、奈良県北西部の生駒郡三郷町と大阪府との境にある山で、信貴山に連なる。古来、大和国と河内国とを結ぶ交通路のうち最も利用度の高い道が、この山を越えていた。奈良朝の人々が西国の旅において帰郷の目途にしたのがこの立田山である。
 4句「美麻知可豆加婆」は「みまちかづかば」と訓む。「美麻」は、「みま(御馬)」で、「神・貴人などの乗る馬。また、美しく立派な馬。」をいう。「み」は接頭語。「知可豆加婆」は、カ行四段活用の自動詞「ちかづく」の未然形「ちかづか」+順接の仮定条件を示す「ば」=「ちかづかば」を表す。「ちかづく」は「距離が近くなる。側に寄る。近寄る。」意。
 5句「和周良志奈牟迦」は「わすらしなむか」と訓む。「和周良」は、ラ行四段活用の他動詞「わする(忘る)」の未然形「わすら」。「わする」は、主に下二段活用で用いられたが、上代の東国語を中心に四段活用もあり、ここは四段活用。「志」は尊敬の助動詞「す」の連用形「し」。「奈」は完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」。「牟」は推量の助動詞「む」(連体形)。「迦」は疑問の終助詞「か」。「わすらしなむか」の行為主体は、旅人であるので敬語を用いている。
 877番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  ひともねの うらぶれをるに 
  たつたやま みまちかづかば
  わすらしなむか

  ひともねの うらぶれ居るに
  龍田山 御馬近づかば
  忘らしなむか

  わたしたち皆が うちしおれていますのに
  竜田山に (あなたの)お馬が近づいたら
  (わたしたちのことは)お忘れになってしまうのではありますまいか
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 16:13| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする