2017年06月16日

『万葉集』を訓(よ)む(その1173)

 今回は880番歌を訓む。題詞に「敢布私懐歌三首〔敢(あ)へて私の懐(おもひ)を布(の)ぶる歌三首〕」とあって、本歌〜882番歌の三首は、「思い切って個人的な思いを述べた歌三首」ということであるが、882番歌の左注に「天平二年十二月六日筑前國守山上憶良謹上」とあるので、作者は山上憶良であることがわかる。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々
  美夜故能提夫利 和周良延尓家利

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、セ音の「世」・ナ音の「奈」・ヒ(甲類)音の「比」・ラ音の「良」・リ音の「利」・ワ音の「和」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、ア音の「阿」・イ音の「伊」が、平仮名の字源となった常用音仮名では、ミ(甲類)音の「美」・ル音の「留」が使われている。その他の常用音仮名としては、ケ(甲類)音の「家」・ツ音の「都」・ト(乙類)音の「等」・ニ音の「尓」・ノ(乙類)音の「能」・ブ音の「夫」・マ音の「麻」・ヤ音の「夜」・エ音の「延」が使われ、準常用音仮名では、コ(甲類)音の「故」・テ音の「提」が、音仮名では、カ音の「迦」・ザ音の「社」・ス音の「周」が使われている。

 1句「阿麻社迦留」は「あまざかる」と訓む。この句は、29番歌17句・227番歌1句・255番歌1句「天離」と同句で、その仮名書き。「あまざかる」は「空遠く離れる」意であるが、枕詞として「向(むか)つ」または「鄙(ひな)」にかかる。
 2句「比奈尓伊都等世」は「ひなにいつとせ」と訓む。「比奈」は「ひな(鄙)」で「都から遠く離れた所。いなか。」の意。「尓」は場所を示す格助詞「に」。「伊都等世」は「いつとせ(五年)」。
 3句「周麻比都々」は「すまひつつ」と訓む。この句は、460番歌25句「住乍」と同句で、その仮名書き。「周麻比」は、マ行四段活用の「すむ(住む)」の未然形「すま」+継続を表す助動詞「ふ」の連用形「ひ」=「すまひ」を表す。「都々」は、同じ動作の反復や継続を表わす接続助詞「つつ」。
 4句「美夜故能提夫利」は「みやこのてぶり」と訓む。「美夜故」(876番歌3句に既出)は、「みやこ(都)」で、「奈良の都」をいう。「能」は連体助詞「の」。「提夫利」は「てぶり(手振り)」で、「手の振り方。ふるまい。習わし。風俗。風習。」の意。
 5句「和周良延尓家利」は「わすらえにけり」と訓む。「和周良延」は、ラ行四段活用の他動詞「わする(忘る)」の未然形「わすら」+自発の助動詞「ゆ」の連用形「え」=「わすらえ」を表す。「わする」は『日本国語大辞典』に下二段活用として載っているが、語誌欄で次のように述べている。

 下二段型のほかに、上代の東国語を中心に四段型が存する。この二語については、四段型を古形、下二段型を新形とみるとらえ方と、四段型は意志的行動としての記憶の消去、下二段型は自然の心理現象としての忘却とみるとらえ方とがあるが、活用の型が異なるということは、原初的には文法的意味が異なっていたもので、有坂秀世は、四段型に受動体を示す辞が加わって融合したのが下二段型であると説明する(国語音韻史の研究‐「わする」の古活用について)。「万葉集‐一四・三四九八」の「海原の根柔ら小菅あまたあれば君は和須良(ワスラ)す我れ和須流礼(ワスルレ)や〈東歌〉」は、両者の意味の違いがよくみてとれる例である。

 「尓家利」(650番歌他に既出)は、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+詠嘆の助動詞「けり」=「にけり」。「わすらえにけり」は、「自然に忘れてしまった」という意。
 880番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  あまざかる ひなにいつとせ すまひつつ 
  みやこのてぶり わすらえにけり

  天離る 鄙に五年 住まひつつ
  都のてぶり 忘らえにけり

  遥かな 田舎に五年 住み続けて
  都の風習も 自然に忘れてしまいました
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 16:41| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする