2018年02月26日

『万葉集』を訓(よ)む(その1246)

 今回は、920番歌を訓む。題詞に「神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]」とあって、神亀二年(725年)五月に、聖武天皇が吉野の離宮に行幸された時に、笠朝臣金村が作った歌である。二十三句から成る長歌で、反歌二首(921・922番歌)を伴う。
 写本の異同は、4句三字目<河>を『西本願寺本』以下の諸本に「川」としていることが挙げられるが、『元暦校本』『金沢本』『紀州本』に「河」とあるのを採った。原文は次の通り。

  足引之 御山毛清
  落多藝都 芳野<河>之
  河瀬乃 浄乎見者
  上邊者 千鳥數鳴
  下邊者 河津都麻喚
  百礒城乃 大宮人毛
  越乞尓 思自仁思有者
  毎見 文丹乏
  玉葛 絶事無
  萬代尓 如是霜願跡
  天地之 神乎曽祷
  恐有等毛

 1句・2句「足引之・御山毛清」は「足(あし)ひきの・み山(やま)も清(さや)に」と訓む。1句は、669番歌1句と同句。「あしひきの」は「山」にかかる枕詞。他にも表記は異なるが同句の既出例がある。それらの表記を示すと、「足日木乃」三例(107・267・466番歌)、「足日木能」二例(108・414番歌)、「足氷木乃」一例(460番歌)、「足檜木乃」一例(477番歌)、「足引乃」二例(580・721番歌)、「足疾乃」一例(670番歌)となっており、「ひきの」の表記は異なるが、「あし」は全て「足」と表記されている。原義は不明だが、「足」と関連した原義である可能性があるので、「足」は漢字のママとした。「引」は「ひき」を表すための借訓字、「之」は漢文の助字で、連体助詞「の」。2句は、133番歌2句の「三山毛清尓」と表記は一部異なるが同句。「御」は「み(甲類)」を表わす訓仮名で、接頭語「み」に用いたもの。接頭語「み」は、本来は霊威あるものに対する畏敬を表わしたが、美称としても用いられるようになった。「山(やま)」は、吉野の山。「毛」は、モ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、係助詞の「も」。「清」は「に」の表記はないが、補読して「さやに」と訓む。「さや」は動詞「さやぐ」の語幹であり、擬声語「さやさや」から「さやに」の副詞となったもの。「さやに」は、音が静寂を乱してひびくさま、木の葉などがざわめくさまを表わす語で、「ざわめかせて」の意。「…も…に」という「AもBに」型は、「AもBするほどに」の意を表わすので、「み山(やま)も清(さや)に」は「山もざわめくほどに音を立てて」の意となる。
 3句・4句「落多藝都・芳野河之」は「落(お)ちたぎつ・芳野(よしの)の河(かは)の」と訓む。3句は、909番歌3句「落多藝追」とツ音の表記が異なるだけで同句。「落」はタ行上二段活用の自動詞「おつ」の連用形「落(お)ち」。「多藝都」は、タ行四段活用の自動詞「たぎつ」(連体形)を表す。「多」「藝」「都」は、タ音・ギ(甲類)音・ツ音の常用音仮名で、「多」は片仮名タの字源。「たぎつ」は、「水がわきあがる。水があふれるように激しく流れる。」の意。四句は、916番歌4句の「吉野之河乃」と表記は異なるが、同句。「芳野河」は、「芳野(よしの)の河(かは)」と訓み、「吉野川」のこと。「之」は1句に同じで、連体助詞「の」。
 5句・6句「河瀬乃・浄乎見者」は「河(かは)の瀬(せ)の・浄(きよ)きを見(み)れば」と訓む。「河瀬」は、「河(かは)の瀬(せ)」で「吉野川の急流」をいう。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、格助詞「の」。「浄」はク活用形容詞「きよし」の連体形「浄(きよ)き」。「きよし」は「汚れなく澄んでいて美しい」ことをいう。「乎」はヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、目的格の格助詞「を」。「見者」(449番歌他に既出)は、マ行上一段活用の他動詞「見る」の已然形「見(み)れ」+順接の確定条件を表わす接続助詞「ば」で、「見(み)れば」。
 7句・8句「上邊者・千鳥數鳴」は「上邊(かみへ)には・千鳥(ちどり)數(しば)鳴(な)く」と訓む。7句「上邊者」は、260番歌11句「奥邊者」を「奥邊(おきへ)には」と訓んだのと同様に「上邊(かみへ)には」と訓む。「川の上流のところでは」の意。「千鳥(ちどり)」(915番歌他に既出)は、多数で群をなして飛ぶところから呼ばれたもので、チドリ科の鳥の総称。「數鳴」は、372番歌8句に既出。「數」は、17番歌の11句の「數々毛[數々(しばしば)も]」と同じく「數(しば)」と訓み、「たびたび。しきりに。幾度も。」の意。「鳴」は、カ行四段活用の自動詞「なく」の終止形「鳴(な)く」。
 9句・10句「下邊者・河津都麻喚」は「下邊(しもへ)には・かわづつま喚(よ)ぶ」と訓む。「下邊者」は、7句「上邊(かみへ)には」に対応し「下邊(しもへ)には」と訓む。「川の下流のところでは」の意。「河津」(324番歌22句に既出)は、「かはづ」で「カエル[蛙]の異名」。「河」は借訓字で、「津」は「つ」の常用訓仮名だが、「づ」に流用したもの。「都」「麻」は、ツ音・マ音の常用音仮名で、「都麻」で以って、「つま(妻)」を表す。「喚」(618番歌他に既出)は、バ行四段活用の他動詞「よぶ」の終止形「喚(よ)ぶ」。「よぶ」は「声をかけたり、知らせを出したりして来させる。」ことをいう。
 11句以降は、次回に続く。
ラベル:万葉集
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2018年02月21日

『万葉集』を訓(よ)む(その1245)

 今回は、919番歌を訓む。918番歌に続いて、917番歌の反歌の二首目である。この歌には次の左注がある(訓読文ならびに口語訳は、阿蘇『萬葉集全歌講義』による)。

[原文]右年月不記。但称従駕玉津嶋也。因今檢注行幸年月以載之焉。
[訓読文]右は年月を記さず。但し、玉津島に従駕すといへり。因りて今行幸の年月を檢へ注して以て載す。
[口語訳]右の歌には、年月を記していない。但し、玉津島に従駕すると歌中にある。それで、今、行幸の年月を調べて記した。

 この左注は、もともとは年月が記されていなかった917〜919番歌に、917番歌の題詞で「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時」と記載した理由を述べたものである。
 本歌の写本に異同はなく、原文は次の通り。

  若浦尓 塩満来者 
  滷乎無美 葦邊乎指天 
  多頭鳴渡

 1句「若浦尓」は「若(わか)の浦(うら)に」と訓む。「若浦」は、『新日本古典文学大系 萬葉集二』の地名一覧に「若浦(わかのうら) 和歌山市の和歌浦一帯.玉津島神社付近から東方、名草山一帯にかけて望まれる.6−919、7−1219」とある。
 2句「塩満来者」は「塩(しほ)満(み)ち来(く)れば」と訓む。「塩(しほ)」は、「海水または岩塩から製し、精製したものは白い結晶で、食生活上なくてはならない調味料」であることは言うまでもないが、ここでは、121番歌同様、「汐(しほ)」の意で用いられている。「しほ」は、「海面が月と太陽の引力によって周期的に高くなったり低くなったりして、海水が岸また沖の方へ交互に動くこと。また、海流の動き。潮流。海水の流れ。」をいう。漢字表記「潮」は「朝しほ」、「汐」は「夕しほ」の意。「満来」はカ行変格活用の自動詞「みちく」の已然形で「満(み)ち来(く)れ」と訓む。「みちく」は、「満ちて来る。満潮になる。」の意。「者」は接続助詞「ば」で、ここは順接の恒常条件を示す。
 3句「滷乎無美」は「滷(かた)を無(な)み」と訓む。「滷」は、人麻呂「石見相聞歌」の131・138番歌に既出で、「潟」と同じく「かた」と訓み、「遠浅の海岸で、潮の満干によって隠れたり現われたりする地。」をいう。「乎無美」は、138番歌2句に既出で、そこでは、「『乎』はヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で格助詞の『を』、『無』はク活用形容詞『なし』の語幹で『無(な)』、『美』はミ音の音仮名で接尾語の『み』。『を無(な)み』は、既出の[体言+を+形容詞の語幹+接尾語「み」]の形で、原因・理由(〜ガ〜ナノデ)を表わす。」と述べた。これはいわゆるミ語法と呼ばれるものであるが、この説明の中で接尾語とした「み」については、その後、接続助詞と見るべきだという説を知り、それを支持するようになった。その説を次に引用しておこう。
『古典基礎語辞典』は、「み」を接続助詞として項目に掲げて、次のように解説している。

 体言の下に間投助詞のヲが付き(時にこのヲは省略されることもある)、さらにその下に形容詞および形容詞型活用の助動詞の語幹がきて、最後にミが付くという「都を遠み」「山高み」「人知りぬべみ」などの語法は、上代からよくある。
従来、この最後のミは接尾語として取り扱われてきた。しかし、形容詞の語幹に接尾語のミが付くと、「深み」「赤み」など、名詞を形成するのが普通である。ところが、「都を遠み」は「都が遠いので」、「山高み」は「山が高いので」、「人知りぬべみ」は「人が知るであろうから」の意となり、ミは原因・理由の意を表す。つまり、このミは語を形作るものではなく、下にくる叙述内容の条件句を作るものなので、機能的に見て、接尾語ではなく、接続助詞と考えるべきである。
なお、この語法は、中古に入っても散見するが、もっぱら和歌の中にあり、散文には出てこないため、歌語という意識のもとに使われていたことがわかる。

 ミ語法については、これ以外にも様々な説があり、まだ決着がついたわけではない。最近知った興味深い説の一つに、物理学者である江部忠行氏の「『山を高み』は『山が高いので』か」(『国語国文研究』/北海道大学国語国文学会編 2017.9)がある。この論文は「仮説と検証」という方法を用いたもので、仮説として、次の四つの仮定を置いている。

 仮定一 「み」は上接する語が示す状態へ向かう変化を意味する。
 仮定二 ヲ型の「を」は対格を示す格助詞である。
 仮定三 「み」は自他両用の動詞である。
 仮定四 他動詞の使用は受身の代用であり、目的は語りの視点の統一である。

 以上の四つの仮定について、それぞれ検証を進めて、その結論として、江部は次のように述べている。

 「を」のある場合は因果関係を、ない場合は感情を表わすとされてきたミ語法だが、ミ語法の「み」の意味を「上接する形容詞語幹が表わす性質へ向かう変化、あるいはその程度が増す変化」とする本稿の仮説を適用すると、両者を統一して解釈可能であることが確認できた。因果関係や感情はミ語法の構文にあるのでなく、表現される事象の関係が内包するものであった。不可解な「を」の使用も語りの視点の統一するための他動詞の無意志的用法の観点から説明できた。
 本稿の仮説はミ語法の意味の解釈だけでなく、形容詞の名詞化語尾の「み」や形容詞から作られる「楽しむ」などの「しむ」の語尾を有する動詞の解釈にも有効であると考える。

 以上、紹介した江部説も含めてミ語法については、今後とも更に検討を加えていかなければならないと思う。
 4句「葦邊乎指天」は「葦邊(あしへ)を指(さ)して」と訓む。「葦邊」(64・352番歌に既出)は、「葦の生い茂っている水辺」をいう。「葦」は、イネ科の多年草で、世界の温帯および暖帯に広く分布し、水辺に群生する。茎は中空の円柱形で直立し、高さ2〜3メートルに達する。「邊」は「辺」の旧字。「乎」は3句に既出で、格助詞「を」。「指」は、サ行四段活用の他動詞「さす」の連用形「指(さ)し」。「さす」は「目あてとしてその方へ向ける。目ざす。」ことをいう。「天」はテ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、接続助詞「て」。接続助詞「て」には漢文の助字「而」が用いられることが多いが、ここは「大空」の意を持つ「天」を使うことによって、大空を鳴き渡る鶴をイメージさせる効果を狙ったものと思われる。
 5句「多頭鳴渡」は「たづ[鶴]鳴(な)き渡(わた)る」と訓む。この句は、271番歌2句「鶴鳴渡」と「たづ」の表記は違うが同句。「多頭」(324・509番歌に既出)は、「たづ[鶴]」。鳥の「鶴(つる)」は、『万葉集』では全て「たづ」と詠まれている。「多」はタ音の常用音仮名(片仮名の字源)、「頭」はヅ音の音仮名。「多頭」という用字は、群れをなす鶴の「多くの頭」を連想させる。『新日本古典文学大系』の脚注に、「結句の原文に『多頭(たづ)』と書いてあることを考慮して、『鶴の群れ』と口語訳した。」とある。「鳴」は、カ行四段活用の自動詞「なく」の連用形で「鳴(な)き」。「渡」はラ行四段活用の自動詞「わたる」の終止形で「渡(わた)る」。「わたる」は「鳥が空中を飛んで行く」の意。
 919番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  若(わか)の浦(うら)に 塩(しほ)満(み)ち来(く)れば 
  滷(かた)を無(な)み 葦邊(あしへ)を指(さ)して
  たづ鳴(な)き渡(わた)る

  若の浦に 潮が満ちて来ると
  干潟が無くなるので 葦辺をさして
  鶴の群れが鳴き渡ってゆくよ
ラベル:万葉集
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2018年02月19日

『万葉集』を訓(よ)む(その1244)

 今回は、918番歌を訓む。題詞に「反歌二首」とあり、917番歌(以下「長歌」という)の反歌の一首目である。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  奥嶋 荒礒之玉藻 
  潮干満 伊隠去者 
  所念武香聞

 1句「奥嶋」は「奥(おき)[沖]つ嶋(しま)」と訓む。この句は、「長歌」の7句と同句。「奥」は、「おき[沖]」と訓み、連体修飾の格助詞「つ」を訓み添える。「嶋」は「島」に同じ。「奥(おき)[沖]つ嶋(しま)」は、固有名詞ではなく、「沖にある島。沖に見える島。」をいう普通名詞。
 2句「荒礒之玉藻」は「荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)」と訓む。「荒礒(ありそ)」(568番歌他に既出)は、「あらいそ」の変化した語で、「荒い磯。岩石が多く、荒波の打ち寄せる海岸。」の意だが、万葉後期には、「いそ(磯)」とほぼ同義の歌語として用いられるようになり、平安以降は「ありそうみ」「ありその浦」「ありその浜」の形で、真砂の数の尽きぬたとえとしたり、「在り」「有り」と掛けて詠むことが多くなる。「之」は漢文の助字で、連体助詞「の」。「玉藻(たまも)」は、「長歌」の12句にも既出で、「美しい藻」の意。「荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)」というと、人麻呂の「石見相聞歌」(135番歌)に「荒礒(ありそ)にそ玉藻(たまも)は生(お)ふる」と詠われていたのが思い起こされる 
 3句「潮干満」は「潮干(しほひ)満(み)ち」と訓む。この句は、「長歌」の11句「潮(しほ)干(ふ)れば」を承けたもの。「潮干(しほひ)」は、「潮(しほ)干(ふ)」が名詞化した語で、「潮が引くこと。また、潮が引いたあとの浜。」をいう。
 4句「伊隠去者」は「い隠(かく)り去(ゆ)かば」と訓む。「伊」はイ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、動詞の上に付いて語調を整える接頭語の「い」。「隠」はラ行四段活用の自動詞「かくる」の連用形「隠(かく)り」。「かくる」は、「物の陰にはいったり、おおわれたりして、しぜんに見えなくなる。」ことをいう。ここの「去者」は、545番歌の3句と同じで、未然形「去(ゆ)か」+順接の仮定条件を示す接続助詞「ば」として「去(ゆ)かば」と訓む。
 5句「所念武香聞」は「念(おも)ほえむかも」と訓む。この句は、191番歌の5句「所念武鴨」と「かも」の表記が異なるだけで、同句。「所念」はヤ行下二段活用の自動詞「おもほゆ」の未然形「念(おも)ほえ」の表記に用いたもの。「おもほゆ」は、動詞「おもう」(「念」で表記)に上代の自発・受身の助動詞「ゆ」(「所」で表記)の付いてできた語で、「思われる」の意。「武」は、ム音の常用音仮名(平仮名の字源)で、推量の助動詞「む」。「香」「聞」は、カ音・モ音の音仮名。「香聞(かも)」は、疑問の助詞「か」に詠嘆の助詞「も」を添えた複合形で、詠嘆の意を表わす終助詞。
 918番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  奥(おき)[沖]つ嶋(しま) 荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)
  潮干(しほひ)満(み)ち い隠(かく)り去(ゆ)かば
  念(おも)ほえむかも

  沖の島の 荒磯に生えている美しい藻よ
  潮が満ちてきて 隠れてしまったら
  思いやられるだろうなあ
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 09:03| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする