2018年12月21日

『万葉集』を訓(よ)む(その1329)

 今回は、984番歌を訓む。題詞に「豊前國娘子月歌一首 [娘子字曰大宅姓氏未詳也]」とあり、「豊前國(とよのみちのくちのくに)の娘子(をとめ)の月(つき)の歌(うた)一首(しゆ) [娘子(をとめ)、字(あざな)を大宅(おほやけ)といふ。姓氏(せいし)いまだ詳(つばひ)らかならず]」ということで、豊前国の通称を大宅という娘子の作である。大宅は、709番歌の作者として既出。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  雲隠 去方乎無跡
  吾戀 月哉君之 
  欲見為流

 1句「雲隠」は「雲隠(くもがく)り」と訓む。「雲隠」(966番歌他に既出)は、ラ行四段活用の自動詞「くもがくる」の連用形で「雲隠(くもがく)り」。「くもがくる」は、「雲の中に隠れる」ことをいう。
 2句「去方乎無跡」は「去方(ゆくへ)を無(な)みと」と訓む。「去方」(201番歌に既出)は、「行方」に同じで、「今後の有様。ゆきつく先。先のなりゆき。将来。前途。」の意。「乎」は、ヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、格助詞「を」。「無」は、ク活用形容詞「なし」の語幹に接続助詞「み」を補読して「無(な)み」と訓む。上の「を」とで、「を…み」の形で、「…のゆえに」「…なので」の意を表す用法で、「去方(ゆくへ)を無(な)み」は「行方がわからないので」の意。「跡」は「と(乙類)」の常用訓仮名で、格助詞「と」。
 3句「吾戀」は「吾(わ)が戀(こ)ふる」と訓む。この句は、150番歌11句、716番歌3句と同句。「吾」は格助詞の「が」を補読して「吾(わ)が」。「吾(わ)」は自称で、作者の娘子大宅をさす。「戀」はハ行上二段活用の他動詞「こふ」の連体形で「戀(こ)ふる」。
 4句「月哉君之」は「月(つき)をや君(きみ)が」と訓む。「月哉」は、間に格助詞「を」を補って、「月(つき)をや」と訓む。この「月」は、「男」を意味すると見たり、「作者自身」をさすとする説などがあるが、ただの天体の「月」と見るのがよい。「哉」は漢文の助字で、疑問の意の係助詞「や」。「をや」について、『日本国語大辞典』は、補注で次のように述べている。

「万葉集」では、「を」が格助詞である場合も、それを受けた「や」が純粋の疑問を表わすことはなく、極めて詠嘆性の強い疑問である。したがってその「や」は、あるいは間投助詞とすべきものかもしれない。

 確かに意味的には間投助詞と見ても良いかもしれないが、5句で「係結び」がされていることから、係助詞と見るのが妥当であろう。「君(きみ)」は女から見て「敬愛する男」を指していう。「之」は漢文の助字で、連体助詞「が」。
 5句「欲見為流」は「見(み)まく欲(ほ)りする」と訓む。「欲見」(778番歌他に既出)は、漢文式に書かれているので、日本語の語順では「見欲」となる。「見」は、マ行上一段活用の他動詞「みる」の未然形「見(み)」に意志・意向の助動詞「む」を補読した「見(み)む」に形式体言アクがついて約まったいわゆるク語法の「見(み)まく」。「欲」は下の「為流」に続いて「欲為流」となるが、これは975番歌に既出で、サ行変格活用の他動詞「ほりす」の連体形「欲(ほ)りする」と訓む。「ほりす」は、ラ行四段活用の他動詞「ほる(欲)」の連用形にサ変動詞「す」の付いてできた語で、「望む。願う。ほっする。」意。ここは四句の係助詞「や」の係り結びで連体形。連体形であることを明示するために、活用語尾「る」をル音の常用音仮名で片仮名の字源である「流」で表記している。

 984番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  雲隠(くもがく)り 去方(ゆくへ)を無(な)みと
  吾(わ)が戀(こ)ふる 月(つき)をや君(きみ)が
  見(み)まく欲(ほ)りする

  雲に隠れ 行方がわからないので
  私が恋しく思っている その月をあなたも
  見たいと思っておられるのでしょう
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 13:30| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月18日

『万葉集』を訓(よ)む(その1328)

 今回は、983番歌を訓む。前歌に続いて、「大伴坂上郎女月歌三首」の三首目で、「大伴坂上郎女」が「月」を詠んだ歌である。なお、この歌には次の左注がある。
「右一首歌、或云、月別名曰佐散良衣壮士也。縁此辞作此歌。」
 これを訓読すると、「右の一首の歌は、或いは云はく、月の別名(またのな)をささらえ壮士(をとこ)と曰ふ。此の辞に縁り此の歌を作る、といふ。」となる。
 写本の異同は、2句五字目<壮>にあり、『西本願寺本』はこれを「牡」とするが、『紀州本』『温故堂本』『大矢本』に「壮」とあるのを採る。原文は次の通り。

  山葉 左佐良榎<壮>子 
  天原 門度光 
  見良久之好藻

 1句「山葉」は「山(やま)のは[端]の」と訓む。ここの「山(やま)」は固有の山をさしたものではない。「葉」は「は」の訓仮名。「山葉」で以って「山(やま)のは[端]」と訓み、「山を遠くからながめたとき、山の空に接する部分。稜線(りょうせん)。」の意。なお、「山の端」は、393番歌に「山之末」、486歌に「山羽」の表記で既出。連体助詞「の」を補読して、2句にかかる。
 2句「左佐良榎壮子」は「ささらえ壮子(をとこ)」と訓む。「左」「佐」は、ともにサ音の常用音仮名で「左」は平仮名の字源、「良」はラ音の常用音仮名で片仮名・平仮名の字源、「榎」は「え」の常用訓仮名。「左佐良」は「小さい」意の「ささら【細】」を、「榎」は「愛すべき」意の「え【愛】」を表す。「ささらえ壮子(をとこ)」は、「愛すべき若い男」の意で【細愛男】と漢字表記され、「月の異称」である。阿蘇『萬葉集全歌講義』は、「さされえをとこ」として、次のように注している。

 さされえをとこ 月の異名。ササラは細かい小さい意であるが、ここは美称。エヲトコは、愛すべき男、の意。月は、「月読壮子」(6・九八五)、「月読壮士」(7・一三七二)のように、擬人化する時、男性として表現された。

 3句「天原」は「天(あま)の原(はら)」と訓む。「天原」(379番歌他に既出)は、「天(あま)の原(はら)」と訓み、「天つ神が統治する天上界。高天原。」の意。
 4句「門度光」は「門(と)度(わた)[渡]る光(ひかり)」と訓む。「門(と)」は「河口や海などの、両岸が狭くなっている所。水流が出入りする所。」をいう。「度」はラ行四段活用の自動詞「わたる」の連体形で「度(わた)[渡]る」。ここの「わたる」は「日や月が空を移動して行く」ことをいう。「光」(710番歌他に既出)は、動詞「ひかる(光)」の連用形の名詞化したもので「光(ひかり)」と訓み、「(物理的あるいは視覚的意味で)明るい、輝かしい、美しいなどと感じられるもの。」をいう。
 5句「見良久之好藻」は「見(み)らくし好(よ)しも」と訓む。「見良久」(913番歌に既出)は、マ行上一段活用の他動詞「みる」の連体形「見(み)る」に形式体言「あく」が付いた「見るあく」が約まった「見(み)らく」。いわゆるク語法で、「見ること」の意。「良」「久」は、ラ音・ク音の常用音仮名で、共に片仮名・平仮名の字源。「之」はシ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、副助詞「し」。「好」はク活用形容詞「よし」の終止形で「好(よ)し」。ここの「よし」は「快い。楽しい。」の意。「藻」は「も」の訓仮名で、詠嘆の終助詞「も」。
 983番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  山(やま)のは[端]の ささらえ壮子(をとこ)
  天(あま)の原(はら) 門(と)度(わた)[渡]る光(ひかり)
  見(み)らくし好(よ)しも

  山の端に出た 小さないい男(月)が
  天の原の 門を渡って行くその光を
  見るのはいい気持ちだ
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 14:01| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月14日

『万葉集』を訓(よ)む(その1327)

 今回は、982番歌を訓む。前歌に続いて、「大伴坂上郎女月歌三首」の二首目で、「大伴坂上郎女」が「月」を詠んだ歌である。
写本に異同はなく、原文は次の通り。

  烏玉乃 夜霧立而 
  不清 照有月夜乃 
  見者悲沙

 1句「烏玉乃」は「烏玉(ぬばたま)の」と訓む。この句は、925番歌1句「烏玉之」と「の」の表記が異なるだけで同句。「烏玉(ぬばたま)」は、「檜扇の実」をいい、「檜扇」の古名が「烏扇」であることから、「烏玉」の字があてられたもの。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体助詞「の」。「ぬばたまの」は、ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語、例えば「黒駒」「黒馬」「黒髪」や「夜」に関する語などにかかる枕詞、ここでは次の「夜霧(よぎり)」にかかる。
 2句「夜霧立而」は「夜霧(よぎり)の立(た)ちて」と訓む。「夜霧」は、下に格助詞「の」を訓み添えて、「夜霧(よぎり)の」と訓む。「夜霧(よぎり)」は「夜間発生する霧。夜にたつ霧。」をいう。「立」はタ行四段活用の自動詞「たつ」の連用形で「立(た)ち」。「たつ」は「雲、霧、煙などが現われ出る」ことをいう。「而」は漢文の助字で、接続助詞「て」。
 3句「不清」は「おほほしく」と訓む。この句は、175番歌3句「欝悒[欝悒(おほほ)しく]」と表記は異なるが同句で、シク活用形容詞「おほほし」の連用形「おほほしく」と訓む。「おほほし」には、「ぼんやりして明らかでない。」「心が悲しみに沈んで晴れない。」などの意があるが、ここは前者の意。「おほほし」の表記に「不清」とあるのは、「清」の字義に「あきらか、あざやか」とあり、「不清」は「あきらかでない、あざやかでない。」=「おほほし」となるからである。
 4句「照有月夜乃」は「照(て)れる月夜(つくよ)の」と訓む。「照有」(565番歌に既出)は、ラ行四段活用の自動詞「てる」の已然形(音韻上は命令形)「照(て)れ」+完了の助動詞「り」の連体形「る」(「有」で表記)で「照(て)れる」。「月夜」(565番歌他に既出)は、「由吉能宇倍尓(ユキノウヘニ)天礼流都久欲尓(テレルツクヨニ)」(4134)、「伎欲伎都久欲仁(キヨキツクヨニ)」(4453)などの仮名書き例により、「月夜(つくよ)」と訓む。なお「月夜(つくよ)」には「月や月の光」の意と「月の明るい夜」の意とがあるが、ここは前者。
 5句「見者悲沙」は「見(み)れば悲(かな)しさ」と訓む。「見者」(942番歌他に既出)は、マ行上一段活用の他動詞「見る」の已然形「見れ」+順接の確定条件を表わす接続詞「ば」で、「見(み)れば」。「悲沙」は、シク活用形容詞「かなし」の語幹「悲(かな)し」に接尾語「さ」が付いてできた名詞「悲(かな)しさ」を表す。「沙」はサ音の音仮名。ここの「かなし」は、「関心や興味を深くそそられて、感慨を催す。心にしみて感ずる。しみじみと心を打たれる。」の意で用いたもの。
 982番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  烏玉(ぬばたま)の 夜霧(よぎり)の立(た)ちて
  おほほしく 照(て)れる月夜(つくよ)の
  見(み)れば悲(かな)しさ

  (ぬばたまの) 夜霧が立って
  ぼんやりと 照っている月の
  見れば心に深くしみてくることよ
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 12:47| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする