2019年05月31日

『万葉集』を訓(よ)む(その1368)

 今回は、1022番歌を訓む。「石上乙麻呂卿配土佐國之時歌三首」の三首目。十一句からなる長歌で乙麻呂本人の立場で歌われたものである。
 写本の異同として、まず、7句三字目<為>を、『元暦校本』『細井本』『無點本』以外の諸本に「為等」とあることがあげられるが、ここは「等」の語不要であり、三本に「等」が無いのに従う。次に9句一字目<幣>を『西本願寺本』は「弊」とするが、『元暦校本』他に「幣」とあるのを採る。原文は次の通り。

  父公尓 吾者真名子叙 
  妣刀自尓 吾者愛兒叙 
  参昇 八十氏人乃 
  手向<為> 恐乃坂尓 
  <幣>奉 吾者叙追 
  遠杵土左道矣

 1句・2句「父公尓・吾者真名子叙」は「父公(ちちぎみ)に・吾(われ)はまな子(ご)ぞ」と訓む。「父公(ちちぎみ)」は、「父君」に同じで、父を敬っていう語。ここは「石上乙麻呂」の父「石上麻呂」をさす。「尓」はニ音の常用音仮名で、格助詞「に」。ここの「に」は「にとって」の意。「吾(われ)」は自称で「乙麻呂」をさす。「者」は漢文の助字で、係助詞「は」。「真」は「ま」の準常用訓仮名、「名」は「な」の常用訓仮名。「真名子」は、「まな子(ご)」と訓み、四句の「愛兒」と同じく、「いとし子」の意。「叙」はゾ(乙類)音の常用音仮名で、指定・教示の終助詞「ぞ」。
 3句・4句「妣刀自尓・吾者愛兒叙」は「妣(はは)刀自(とじ)に・吾(われ)は愛兒(まなご)ぞ」と訓む。「妣」は『名義抄』に「妣 母なり、死せると妣と曰ふ。ハハ」とある。この時乙麻呂の母は亡くなっていたものか。「刀自(とじ)」(723番歌に既出)は、「戸主(とぬし)」の意で、「刀自」はあて字。家の内の仕事をつかさどる者をいうのが原義で、「家事をつかさどる婦人。主婦。」の意に用いられたが、転じて「女性を尊敬または親愛の気持ちを込めての呼称」としても使われるようになった。「妣(はは)刀自(とじ)」は、1句の「父公(ちちぎみ)」に対応させたもので、「母君」の意。「尓」は1句に同じく格助詞「に」で、「にとって」の意。4句は2句と「まなご」の表記が異なるだけで同句。
 5句・6句「参昇・八十氏人乃」は「参(ま)ゐ昇(のぼ)る・八十氏人(やそうぢびと)の」と訓む。「参昇」は、ラ行四段活用の自動詞「まゐのぼる」の連体形で「参(ま)ゐ昇(のぼ)る」。「まゐのぼる」は、のぼってくる意の謙譲語で、「参上する。高貴な人のもとや高貴な場所、また都に行く、またやって来る。」ことをいう。「八十氏人(やそうぢびと)」は、「多くの氏の人々。またおおぜいの人々。」の意。「乃」は、ノ(乙類)音の常用音仮名、片仮名・平仮名の字源で、格助詞「の」。
 7句・8句「手向為・恐乃坂尓」は「手向(たむ)け為(す)る・恐(かしこ)の坂(さか)に」と訓む。「手向(たむ)け」(427番歌他に既出)は、「神仏に幣(ぬさ)など供え物をすること」をいう。「為」はサ行変格活用の他動詞「す」の連体形「為(す)る」。「恐乃坂」は、「恐(かしこ)の坂(さか)」と訓む。「乃」は6句に既出で、ここは連体助詞「の」。「恐(かしこ)の坂(さか)」については諸説あるが、ここでは「恐ろしい国境の坂」の意としておく。なお、吉井『萬葉集全注』が詳しく注しているので、後ろに[参考]として引用しておくので参照されたい。「尓」は1句・3句に既出で、ここは場所を示す格助詞「に」。
 9句・10句「幣奉・吾者叙追」は「幣(ぬさ)奉(まつ)り・吾(われ)はぞ追(お)へる」と訓む。「幣(ぬさ)」(558番歌他に既出)は、「神に祈る時にささげる供え物」のことで、麻・木綿(ゆう)・紙などで作った。「奉」はラ行四段活用の他動詞「まつる」の連用形「奉(まつ)り」。「まつる」は「やる(遣)」「おくる(送)」の謙譲語で、その動作の対象を敬っていう。「さしあげる。献上する。」の意。「吾者」は2句・4句に同じで、「吾(われ)は」。「叙」も2句・4句に既出で、ここは強意の係助詞「ぞ」。ここの「追」は、ハ行四段活用の他動詞「おふ」の已然形(音韻上は命令形)「追(お)へ」+完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」(無表記だが、補読。)=「追(お)へる」と訓む。「おふ」は、「目的地へ向かって進む。」ことをいう。「る」と連体形になっているのは上の「ぞ」の係結び。
 11句「遠杵土左道矣」は「遠(とほ)き土左道(とさぢ)を」と訓む。「遠杵」は、ク活用形容詞「とほし」の連体形「遠(とほ)き」。連体形であることを明示するために活用語尾「き」を「き(甲類)」の準常用訓仮名「杵」で表記したもの。「土左道(とさぢ)」は、「土佐の国へ至る道」をいう。「矣」は、漢文の助字で、格助詞「を」に用いたもの。
 1022番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  父公(ちちぎみ)に 吾(われ)はまな子(ご)ぞ
  妣(はは)刀自(とじ)に 吾(われ)は愛兒(まなご)ぞ
  参(ま)ゐ昇(のぼ)る 八十氏人(やそうぢびと)の
  手向(たむ)け為(す)る 恐(かしこ)の坂(さか)に
  幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(われ)はぞ追(お)へる
  遠(とほ)き土左道(とさぢ)を

  父君にとって 私はいとし子だ
  母君にとって 私はいとし子だ
  都へ上る 多くの氏人たちが
  手向けをする 恐ろしい国境の坂に
  幣をお供えして 私は進んで行く
  遠い土佐の国への道を

[参考]吉井『萬葉集全注』の「恐の坂」の注

 この坂については、童蒙抄の「険難のおそろしき坂路」とする普通名詞説、略解の「倭より河内へ越る所の坂也」とすると地名説と、「紀伊のうちの地名であろう」とする佐佐木評釈説の三説がある。紀伊の地名とする説は、一〇一九の真土山との関連を考えたのであるが、一〇一九は帰路を歌い、「待つ」にかけて真土山と歌ったのであり、この歌は往路を歌ったのであるから、真土山との関連は考える必要がない。それよりも表現の上から言えば「参ゐ上る八十氏人の手向する恐の坂」であるから、上京する八十氏人たちの通った、都によく知られた坂と考える必要があるだろう。「天武紀」元年七月条に、天武方の紀臣(きのおみ)大音(おおと)が守り、衛我(えが)川(大和川合流点近くの石川)の西で壱岐史(いきのふびと)韓国(からくに)と戦って敗れ、坂本臣(さかもとのおみ)財(たから)がここに退いたと記述されている懼坂(かしこのさか)がみえる。竜田路については九七一(注)に述べたが、山本博(「亀瀬越=懼坂道と峠の神」『竜田路』)は、この懼坂を、竜田路の南路U、本宮より南下して大和川の北岸に出、そのまま川沿いの道を峠八幡社―亀瀬(かめのせ)八幡社―青谷へと出る道路上の亀瀬八幡社を中心とした緩やかな坂道、住吉大神神代記の「胆駒(いこま)神南備(かむなび)山」の四至の南限を示した「賀志支利(かしきり)坂」に比定した。ここが恐の坂として恐れられたのは、二上火山爆発時に峠地区に堆積した約十万坪の腐食安山岩が、大和川に向かって常に地すべりを起す危険をはらんでいたからである。
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 14:22| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする