2012年06月19日

『万葉集』を訓(よ)む(その102)−51番歌「志貴皇子御作歌」2

前回、第51番歌の2句の解説の途中で終わったので、今回はその続きから。まずこの2句の解釈についての主要な説を見ておこう。
 山田孝雄『万葉集講義』には、「(明日香に)都のありしとき采女の袖吹きかへししものなるを以てかくいはれたるにて、今も都ならば、采女の袖を吹き翻すべきこの風もといふ意なり」とある。岩波書店新古典文学大系本も「『袖吹きかへす』という現在形は『明日香が都だったら、当然、彼女たちの袖を吹きひるがえすはずの』という意。音数上の制約もあって現在形が用いられたと思われる。」と注している。澤瀉久孝『万葉集注釋』には、「動詞の連体形は必ずしも現在の事実を示すとは限らない。過去の事にも未来の事にも用ゐる事は今の口語にも常にある例である。殊に、…大宮人の まかり出て 遊ぶ船には 梶棹も 無くてさぶしも こぐ人無しに(3・二五七)の『遊ぶ船』が今現に遊んでゐる事でない事はあまりにも明瞭で論の餘地はない。今の『袖吹きかへす』もそれであつて、今現に吹きかへしてゐる、と解せなければならぬものではない」とある。小学館日本古典文学全集本も「この吹キ返スは歴史的現在としての用法」とし、第153番歌の「思ふ鳥立つ」の注では、「思ふは愛する意。過去の習慣を歴史的現在として述べる」としている。
 確かに、客観的な事実の問題としては「采女の袖吹き反す」という情景は過去のものに属するに違いなく、右の説のように「かへすべき」の意に解いたり、また歴史的現在としての用法とする考えも分からないではない。しかし、これらの説明は、作歌時点における作者に迫る点で不十分なのではないだろうか。作者は「采女の袖吹き反す」と歌っているのであって、「袖吹きかへしし」とも「袖吹きかへすべき」とも歌っていない。作者は明日香風に吹きかえされる采女の袖を現に見ているのであって、過去の情景を想い起こしているのでもなければ、当然そうあるべきだと考えているのでもない。客観的にはどうであれ、作者に現に見えるから、現にそう感じられるから現在形で歌ったものと考えた方が、作歌時点における作者に迫ることになるのではないだろうか。それが幻想であり、過去の情景であったと認識するのは下の句にいってからのことである。このような詩的現在とも言うべき用法は他にも例をあげることができるがここでは割愛する。
 3句「明日香風」は「明日香(あすか)風(かぜ)」と訓む。明日香風は明日香(飛鳥)の地を吹く風である。伊香保風・佐保風など類似の例はあるが、明日香風はこの一例だけであり、作者志貴皇子によってその場で作られた表現だと思われる。すでに居を藤原に移していた皇子が、久しぶりに明日香の地を訪れて、吹く風を「ああこれが明日香の風だ」と感じたそのままを表わしたものと考える。
 4句「京都乎遠見」は「京都(みやこ)を遠(とほ)み」と訓む。「京都」は漢語で「けいと」。「京」「都」両字とも「みやこ」を意味し、「京都」も「みやこ」と訓む。「乎」はヲを表わす常用の音仮名で、片仮名ヲの字源。「遠」は正訓字で、ここはク活用の形容詞「遠し」の語幹として用いられている。「見」は「み(甲類)」を表わす訓仮名で、接尾語の「み」として用いたもの。〔体言+を+形容詞の語幹+接尾語「み」〕の形で、原因・理由(〜ガ〜ナノデ)を表わす。「明日香藤原間は一里足らずの距離である。しかし作者はそれを遠みと感じたのである。」と土屋文明『万葉集私注』はいう。「京都を遠み」は物理的な距離の問題ではない。新都と旧都に対する作者の思いの相違であり、新都にわく宮廷人に背を向けて旧都にやって来た作者との距離の問題と言えるかもしれない。
 5句「無用尓布久」は「無用(いたづら)にふく」と訓む。「無用」は漢語で「むよう」。「無用に」の意を表わす「いたづらに」と訓む。「いたづらに」は、形容動詞「いたづらなり」の連用形が副詞化したもので、何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。空虚・無常の気持ちを表すこの副詞は万葉人に好まれたが、これがその最初の用例である。「尓」は、ニ音の常用音仮名で格助詞の「に」を表わす。「布」「久」は、フ音・ク音の常用音仮名で、「久」は片仮名・平仮名の字源。「布久」でカ行四段活用の自動詞「ふく(吹く)」を表わす。
 第51番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、

 采女(うねめ)の 袖(そで)吹(ふ)き反(かへ)す 明日香(あすか)風(かぜ)
 京都(みやこ)を遠(とほ)み 無用(いたづら)にふく

 (美しい)采女たちの 袖を(あでやかに)ひるがえす (ここ)明日香の風が
 (その風も)みやこが遠くなったので (今は)ただ空しく吹いている
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 09:31| Comment(2) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「袖吹き反す」について、小学館の新編古典文学全集に「
過去のことでも習慣的事実は一般に現在形で表わす。ただし連体修飾に限る。
」とあります。

現代語の場合習慣的事実は過去のことなら過去形で表現します。
1 太郎は毎晩遅くまで勉強した。
2 明日香風はいつも采女の袖を吹き返した。

これを連体修飾にすると現在形になります。
3 毎晩遅くまで勉強する太郎は優等生だった。
4 采女の袖を吹き返す明日香風は都の名物だった。

しかしこの「袖吹き返す」は習慣ではなく恒常的性質、能力であると私は考えます。つまり今もしも采女がそこに存在するなら明日香風は袖を吹き返すと詠者は考えるのです。例文の3と4も過去の習慣ではなく恒常的な性質です。次のように言い替えれば明らかです。恒常的な性質だから現在でも過去でも同じ表現になります。形容詞と同じです。
5 毎晩遅くまで勉強する太郎は優等生だ。
6 采女の袖を吹き返す明日香風は采女のいない今も吹いている。

詠者は明日香風が采女の袖を吹き返すのを何度も観察した。そこから明日香風にそのような能力があると結論した。今采女は遷都のために明日香に存在しない。しかしもしも存在するなら袖を吹き返すのは間違いない。詠者はそう考えたものと思います。

恒常的な性質や能力を表わす表現は次のものがあります。
7 金属は電流を通す。
8 水は常圧なら百度で沸騰する。
9 明日香風は采女の服装の人の袖を吹き返す。

現在形が恒常的な性質を表わすことは日本語に限らず世界の言語に共通して見られることです。
Posted by 上代語法序説 at 2017年09月28日 15:06
原因や理由を表わすとされてきたミ語法ですが、単なる連用中止法でもそこに因果関係があると考えられる状況ならば原因や理由を表しているように見えます。

1 教室の窓を割り、先生に叱られた。
2 先生に叱られ、教室の窓を割った。

しかし次の例はそう見えません。そこに因果関係があると考えられないからです。

3 山へ行き、柴を刈った。
4 鰻を食べ、ビールを飲んだ。

ミ語法もこれと同じです。連続して起こる動作があれば、先行する動作が後続の動作の原因や理由である場合が多いからそう見えるだけです。

では、ミ語法とは何か。「み」はそれが下接する形容詞の語幹の状態に向かう変化を表わす動詞連用形と考えました。そう仮定した上で、それを多数の用例で検証しました。詳細はリンク先の論文に書きましたので、ご参照ください。「を」があるのは他動詞、ないのは自動詞と考えます。「山を高み」は「山を高くして」、「山高み」は「山が高くなって」です。

しかし、人間が山を高く出来るのか。出来ません。これは「戦争で蔵書をすべて焼いてしまった」と同様の使役表現です。「結果として、山を高くしてしまって」「山を高くしたのと同じことになって」、さらに意訳すれば「山に高く成られて」です。

この51番歌の「都を遠み」は遷都により都が移動したことを「都を遠くしてしまって」という時間的変化を表現したものと考えます。

メールでご連絡いただければ拙稿をお送りします。小生のアドレスはブログをご覧ください。
Posted by 上代語法序説 at 2017年09月28日 15:17
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