2014年03月31日

『万葉集』を訓(よ)む(その522)

 今回は、337番歌を訓む。題詞に「山上憶良臣罷宴歌一首」とあり、訓み下すと「山上憶良臣(やまのうへのおくらのおみ)の、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首」となる。作者の山上憶良は、63番歌の作者として既出。その折の題詞には「山上臣憶良」とあって、氏・姓・名の順であったが、ここでは氏・名・姓の順に書かれている。姓を名の下に書くのは敬称法で、敬意を表す場合の書き方である。憶良は、大宝元年(701)一月、無位のまま遣唐少録に任ぜられ、翌二年渡唐。慶雲元年(704)七月に帰朝か。和銅七年(714)一月、正六位下より従五位下に叙せられ、霊亀二年(716)四月、伯耆守。その後、養老五年(721)東宮(のちの聖武天皇)に侍講し、神亀三年(726)には筑前守に任ぜられ、同じ頃下向した大宰帥大伴旅人と交遊し、筑紫歌壇を形成することとなる。憶良の撰になる『類聚歌林(るいじゆうかりん)』七巻は、すでに『万葉集』編纂の際に参考にされたが、今は伝わらない。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
 
 1句「憶良等者」は「憶良(おくら)らは」と訓む。「憶良(おくら)」は、作者自らの名前。「等」は、「ら」を表わす常用の訓仮名で、謙遜・親愛の情を表す接尾語「ら」。「者」は、「は」の訓仮名で、係助詞「は」。
 2句「今者将罷」は「今(いま)は罷(まか)らむ」と訓む。ここの「今(いま)」について、西宮『萬葉集全注』は次のように注している。

 「今」を宴半ばの「今」ととる説が多いが、伊藤博が言うように「愉しき宴の“お開き”を告げる客側の『挨拶歌』」(『万葉集の表現と方法』上)とみるべきである。「憶良らは」と自らの名乗りをして謙遜しながら、「ではこれでもう」と発声する時が「今」なのであって、中座の時に、名乗って「今は」などと言うべきものではない。

 澤潟『萬葉集注釋』は「『今は』と云つたのは宴半ばにして、もうお先へ退出しようといふのである。」とする。歌の意からすると、宴を退席するにあたっての挨拶として詠んだものと考えられるから、澤潟の言うのも間違いではない。ただ、この歌はやはり、西宮が支持する伊藤博の「“お開き”を告げる客側の『挨拶歌』」とする説があたっているように思う。現在の宴会においても「中閉め」の挨拶というものがあるが、その挨拶に立った憶良がこのユーモアあふれる歌を披露することによって、宴は和やかに終わったものと思われる。
「者」は1句に同じで、係助詞「は」。「将罷」は、ラ行四段活用の自動詞「まかる」の未然形「罷(まか)ら」+意志・意向の助動詞「む」(漢文の助字「将」で表記)で、「罷(まか)らむ」と訓む。「まかる」は、動詞「まく(任)」に対する自動詞で、上位者の命によって、また、その許し得て行動することをいうのが原義。ここは「貴人のもとから退出する」ことをいう。
 3句「子将哭」は「子(こ)哭(な)くらむ」と訓む。「子(こ)」は、作者の子を指すが、そんなに小さな子が実際にいたわけではない。「将哭」は、カ行四段活用の自動詞「なく」の終止形「哭(な)く」+現在推量の助動詞「らむ」(「将」で表記)で「哭(な)くらむ」と訓む。
 4句「其彼母毛」は「其(そ)れ彼(そ)の母(はは)も」と訓む。ここの「其」は、「其(そ)れ」と訓み、漢文訓読的な用語で、注意を促す為に発する語。「彼」は、319番歌23句「彼山之」を「彼(そ)の山(やま)の」と訓んだのと同じで、「彼(そ)の」と訓む。「彼(そ)の母(はは)」は、3句の「子」の「母」であるから、結局憶良の自分の妻ということなのであって、「妻」を間接的に表現しているところにユーモアがある。「毛」は、モ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、並立の意の係助詞「も」。
 5句「吾乎将待曽」は「吾(わ)を待(ま)つらむそ」と訓む。「吾(わ)」は自称、作者憶良をさす。「乎」はヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、動作の対象を示す格助詞「を」。「将待」は、タ行四段活用の他動詞「まつ」の終止形「待(ま)つ」+現在推量の助動詞「らむ」(「将」で表記)で「待(ま)つらむ」と訓む。「曽」はソ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、強い指示・指定を示す終助詞「そ」。
 337番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

 憶良(おくら)らは 今(いま)は罷(まか)らむ
 子(こ)哭(な)くらむ 其(そ)れ彼(そ)の母(はは)も
 吾(わ)を待(ま)つらむそ

 憶良めは もうおいとまします
 家では子供が泣いておりましょう そしてその子の母も
 私を待っていることでしょうよ

 この歌について西宮『萬葉集全注』は【考】の「作者・作歌事情」のなかで次のように述べている。 

 この歌の作られた時期を天平元年(七二九)とすると、憶良は七十歳である。「子泣くらむ」とあるのは不穏当として、注釈は、憶良壮年の日の作で、大宰府で宴飲の集いがしばしば催されるにつけて、「また山上長官の罷宴歌を謡はうぢやないか」というようなことになった、と臆測しているが、その見方が正しいと言うべきである。繰返し言うが、この歌の戯笑性によって、「お開き」の歌代わりに歌われていたと見るべきで、酒宴に対する反発だとか、中座の挨拶だとか見てはならない。

 一方、阿蘇『萬葉集全歌講義』は、「宴を退席する時の挨拶の歌。歌の中に自分の名前を出し、謙遜でもあるが親愛の情をあらわす時にも用いる接尾語『ら』をつけて、泣く子供、自分の帰りを待つ妻の姿を詠み込み、ユーモラスである。家族を愛する歌を多く詠んだ憶良の面目躍如たるものがある。天平元年とすると憶良は七十歳、そんなに小さい子供がいたわけはないとして、憶良の壮年の作が大宰府の宴席でしばしば歌われたのだとする説もあるが、そんなに小さい子がいるはずもないのにこのように歌って妻への愛を強調したところに一層人々をよろこばせたユーモアがあつたのかも知れない。」と述べている。澤潟・西宮の説と阿蘇のどちらもあり得るように思う。本当のところはどちらだったのだろうか。
タグ:万葉集
posted by 河童老 at 14:53| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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