2014年04月01日

『万葉集』を訓(よ)む(その523)

 今回は、338番歌を訓む。題詞に「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」とあり、本歌〜350番歌の十三首は、大伴旅人が「大宰帥」として在任中に詠んだ、酒の徳をほめたたえた歌である。この歌群は「讃酒歌」と称され、その構成についての論は多くあるが、先ずは歌を訓むことから始めよう。一首目の本歌は歌群の総序と位置づけられる。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師

 1句「験無」は「験(しるし)無(な)き」と訓む。「験(しるし)」は、あるはたらきかけに対して現われる結果をいい、「甲斐のあること。効果。」の意。「無」は、ク活用形容詞「なし」の連体形で「無(な)き」。
 2句「物乎不念者」は「物(もの)を念(おも)はずは」と訓む。ここの「物(もの)」は「感じたり考えたりする事柄。悩み事、考え事、頼み事、尋ね事など。」をいう。「乎」はヲ音の常用音仮名(片仮名の字源)で、動作の対象を示す格助詞「を」。「不念」(242番歌に既出)は、ハ行四段活用の他動詞「おもふ」の未然形「念(おも)は」+打消しの助動詞「ず」(連用形。「不」で表記)。「者」は、係助詞「は」。 打消の助動詞ズの連用形に係助詞ハを軽く添えたズハは歌によく使われることについては前に述べた(86・94・115・120・269番歌に既出)。大野晋の「万葉集ズハの解釈」によれば、ズハのズが否定する内容には、次の三つの場合があると言う。
@ その行為・状態が既に成立していて、作者にとって苦しく堪え難くなっている場合。
A その状態が未だ成立していないが、作者に望ましいものと思われている場合。
B その状態は予想もできない、生起しそうもない場合。
以上の三つの場合で、ここは@にあたるとしている。
 3句「一坏乃」は「一坏(ひとつき)の」と訓む。「一(ひと)」(語素)は、物事の数がひとつであること、または一回分であることを表わし、名詞・助数詞または動詞の連用形の上に付けて用いる。例えば、「ひと足」「ひとさじ」「ひと冬」「ひと勝負」「ひと浜」など。「坏(つき)」は、「土器の形の一つ。古墳時代以降、奈良・平安時代にかけて使用された皿形の容器で、盤(ばん)よりやや深いもの。蓋(ふた)のある蓋坏、蓋のない片坏の二種があるが、土師器・須恵器それぞれ作られている。酒坏のほか、食物などを盛るのに使用されたことが『延喜式』にみられる。」(『日本国語大辞典』より)。「乃」は、ノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体修飾の格助詞「の」。
 4句「濁酒乎」は「濁(にご)れる酒(さけ)を」と訓む。「濁酒」は、糟をこしていないために白濁している酒、いわゆる「どぶろく」。こしてすんだ酒である「清酒」に対していう。『名義抄』にはニゴリサケとあるが、ここは訓読語のニゴレルサケと訓まれいている。「濁酒」は『文選』にも登場しており、漢詩文の世界を呼び込んだものであることから、訓読語の訓みがふさわしいと言えよう。「乎」は2句に同じ、格助詞「を」。
 5句「可飲有良師」は「飲(の)むべく有(あ)るらし」と訓む。「可飲」は、マ行四段活用の他動詞「のむ」の終止形「飲(の)む」+推量・当然の助動詞「べし」の連用形「べく」(漢文の助字「可」で表記)で、「飲(の)むべく」と訓む。「有」は、ラ行変格活用の自動詞「あり」の連体形「有(あ)る」。「良師」は、推定の助動詞「らし」を表すのに用いたもの。「良」はラ音の常用音仮名で、片仮名・平仮名の字源。「師」はシ音の音仮名であるが、「し」の常用訓仮名としても使われた。
 338番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  験(しるし)無(な)き 物(もの)を念(おも)はずは
  一坏(ひとつき)の 濁(にご)れる酒(さけ)を
  飲(の)むべく有(あ)るらし

  甲斐のない 物思いをしているがそんなことはしないで
  一杯の 濁り酒を
  飲むべきであるらしい

 この歌について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「全体の総論もしくは序といった性格を持つ。日頃、甲斐のない物思いをせざるを得ない状況にあることを、この歌の表現は示している。『一坏の』は、少量\であることを示しており、濁り酒は下等な酒、甲斐のない物思いをするのは、それ以下ということになる。一坏の濁り酒を飲むことを、無条件で礼讃しているのではない。」と述べている。
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 17:54| Comment(4) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
第二巻の86番歌のコメントからこちらをご紹介いただきましたので、大野晋氏の説について述べさせていただきます。

大野晋著『係り結びの研究』の「ハとモ」の章にズハの語法の考察があります。ただし他の大野氏の著作と比べて多少歯切れが悪く感じました。大野氏は「
卑見によれば、ズハはどのような場合でもズハであって、それ自身に何の変化もないはずである。
」と述べながら、反事実的な仮定のズハについては「
これらの歌は、実は宣長のいうように「A・・・ンヨリハBスレパヨイノニ」と訳しても当るものである。
」と記しています。

大野氏は86番歌について「
これを「コレホド恋シテイナイナラパ」と扱ったのでは異様である。
」と書いていますが、「ズハはどのような場合でもズハ」であるなら、やはり「これほど恋していないならば」とすべきでないかと考えたのが、先日お話しました拙稿の解釈です。

第三巻の338番歌も拙稿では「
甲斐のないことを考えていないならば、(その人は、あるいは、その時は)一杯の濁り酒を飲んでいるはずであることが他の事実から示唆されている
」と現代語訳しました。以下拙ブログから引用します。


対偶を取ると「酒を飲まないならば甲斐のないことを考える」となります。「べし」の意味は「したほうが良い」という弱い意味ではなく「しなくてはならない」「するはずである」という必然に近い意味であると私は考えます。そうでないならば「べし」は命令の意味を持ち得ません。また「らし」は現代語よりも強く、何らかの証拠となる事実から示唆されるという意味ととるべきでしょう。「らし」の意味に関する詳細な検討は別稿としますが、話者の主観的な判断ではなく何らかの事実が話者にそのような判断を示唆しているのです。

7-4は積極的な飲酒の奨励と考えます。だからこそ大伴旅人の賛酒の13首の冒頭に置かれたのでしょう。


お目汚しかもしれませんが、ズハを素直に解釈するとこのようになるものと愚考します。
Posted by 上代語法序説 at 2017年02月18日 20:34
コメントありがとうございます。
 338番歌について、江部さんは「甲斐のないことを考えていないならば、(その人は、あるいは、その時は)一杯の濁り酒を飲んでいるはずであることが他の事実から示唆されている」と現代語訳されているとのことですが、率直に申し上げて、私には少し理が勝ちすぎた解釈のように思えました。
 この歌で大事な点は、作者の旅人が「甲斐のないことを考えている」という状態にあって、そのことに耐え難くなっていることを詠っているということにあると思います。ズハのズは「甲斐のないことを考えている」のに耐え難いのでそれを打消したい気持ちを表し、ズハのハは「打消す」というためにはどうすれば良いかという主題の提示をしているものと考えます。
 なお、私が参考にした大野晋の論文は、「万葉集のズハの解釈―助詞ハの機能から見るー」で、『係り結びの研究』の「ハとモ」の章にズハの語法の考察よりはかなり後のもので、昭和57年度、学習院大学大学院での講義に基づいて書かれたものです。      河童老
Posted by 河原清 at 2017年02月19日 10:21
文献のご紹介ありがとうございます。大野晋(1983)「万葉集のズハの解釈」(国文学 解釈と鑑賞 11月号)を近隣の図書館から借りてきて読みました。十年後の大野晋(1993)『係り結びの研究』と基本的に同じ論旨と感じました。

>作者の旅人が「甲斐のないことを考えている」という状態にあって、そのことに耐え難くなっていることを詠っている

これは大野晋氏の推測であって論証された事実ではありません。大野晋氏の説も河原清様の説も私の説も、いずれも仮説であって、他の歌でも成立するかの多数のテストを受けて行かねばなりません。

ご紹介いただいた論文に面白い記述がありました。『係り結びの研究』にも継承されていて私が見逃していたのかもしれませんが、次の記述です。


勿論@ABのズハは奈良時代の語法としては一つだが、現代語として訳を与える場合には@ABは条件に応じてそれぞれ異ってくる。


橋本進吉氏のズハの考察は「現代語で成立する意味は上代語でも成立する、つまり、上代語と現代語は考察の範囲内で単語や文法が一対一の対応をしている」という前提の上に立ちます。大野氏の記述はそれを真っ向から否定しています。
Posted by 上代語法序説 at 2017年02月20日 20:56
 私のコメントで紹介した文献を早速に読まれたようで、そのご対応の早さに驚いております。
 まず、お詫びですが、私のコメントの中で。紹介した文献を「『係り結びの研究』の「ハとモ」の章にズハの語法の考察よりはかなり後のもので」と書いてしまいましたが、「かなり前のもので」の誤りです。江部様のコメントで、その誤りを「十年後の大野晋(1993)『係り結びの研究』と基本的に同じ論旨と感じました。」と訂正して頂きました。お詫びとともに感謝申し上げます。ありがとうございました。
 江部様が「いずれも仮説であって、他の歌でも成立するかの多数のテストを受けて行かねばなりません。」とご指摘されているのは誠にその通りだと思います。今回ご紹介した大野論文でもその冒頭に「橋本進吉先生が取り上げられたズハについては今なお数々の異論がある。ここに私なりの考察の結果を記して、ご批判を得たいと思う。」と記されています。
 ズハの考察は今後とも続けていかなければならないと改めて思った次第です。今後ともよろしくお願い申し上げます。         河童老
Posted by 河原清 at 2017年02月21日 09:27
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