2016年02月19日

『万葉集』を訓(よ)む(その972)

 今回は、710番歌を訓む。題詞に「安都扉娘子歌一首」とあって、「安都扉(あとのとびらの)娘子(をとめ)」の歌である。「安都」は氏の名。安都氏は、663番歌の作者「安都宿祢年足」で既出。安都扉娘子は、安都宿祢氏の娘子で「扉」は通称であると思われる。
 写本に異同はないが、『西本願寺本』のみ、四句の末字<之>が抜けている。ただし、「人」の下に◯印があり、右横に「之」と小字で書かれているので、書落としたものと思われる。原文は次の通り。
 
  三空去 月之光二 直一目 相三師人<之> 夢西所見

 1句「三空去」は「み空(そら)去(ゆ)く」と訓む。この句は、534番歌の9句「水空徃」と表記は異なるが同句。「三」は「み(甲類)」の常用訓仮名で、接頭語「み」を表す。「み空(そら)」は空の美称。「去」はカ行四段活用の自動詞「ゆく」の連体形「去(ゆ)く」。「み空(そら)去(ゆ)く」は、雲や月などにかかる枕詞的な修飾語で、ここも次の「月(つき)」を修飾したもの。
 2句「月之光二」は「月(つき)の光(ひかり)に」と訓む。「月(つき)」は前歌にも既出で「天体の月」。「之」は漢文の助字で、連体助詞の「の」。「光」は、動詞「ひかる(光)」の連用形の名詞化したもので「光(ひかり)」と訓み、「(物理的あるいは視覚的意味で)明るい、輝かしい、美しいなどと感じられるもの。」をいう。「二」はニ音の音仮名(片仮名の字源)で、格助詞「に」。
 3句「直一目」は「直(ただ)一目(ひとめ)」と訓む。「直」は、638番歌1句「直一夜」の「直」と同様、副詞の「直(ただ)」で、事柄の単一さ、数量の少なさを強調する気持を表わす。「わずかに。たった。ほんの。」の意。「一目(ひとめ)」は「一度見ること。ちょっと見ること。」をいう。
 4句「相三師人之」は「相(あ)[逢]ひみし人(ひと)の」と訓む。「相三」は、マ行上一段活用の自動詞「あひみる」の連用形で「相(あ)[逢]ひみ」と訓む。「三」は1句にも既出の「み(甲類)」の常用訓仮名。「あひみる」は「互いに相手を見る。顔を合わせる。対面する。また、であう。」ことをいう。「師」は「し」の常用訓仮名で、回想の助動詞「き」の連体形「し」に用いたもの。「相(あ)[逢]ひみし人(ひと)」は「お目にかかった人」の意。「之」は2句にも既出の漢文の助字で、ここは格助詞「の」。
 5句「夢西所見」は「夢(いめ)にし見(み)ゆる」と訓む。591番歌5句と同句。「夢」はユメではなくイメ。「夢」の仮名書き例は全て「イメ」で「ユメ」の例はない。「イ」は「寐(ぬ=ねる)」の意で、「メ」は見ることを意味すると考えられる。「西」は「にし」を表す借訓字で、格助詞「に」と副助詞「し」に用いたもの。「所見」は、マ行上一段活用の他動詞「みる」の未然形「見(み)」+受身・可能・自発の助動詞「ゆ」の連体形「ゆる」(漢文の助字「所」で表記)で「見(み)ゆる」。591番歌の場合は上の係助詞「や」の結びで連体形となったものであるが、本歌では上に係助詞はないが、連体形で止められ詠歎の意がこもる。
 この句について、澤瀉『萬葉集注釋』に「例(四九〇、その他)の多い結句であるが、ここは『や』『か』の係詞がなくて連體形で止めたもの(六六二)で、上に主語を示す助詞として『が』又は『の』が用ゐられる。」とある。
 なお、この歌の表記には、一句に「三」、二句に「二」、三句に「一」、四駆に「三」と漢数字が用いられており、数字遊びが見られるが、数字遊びを徹底するとしたら五句の「西」は「二四」としても良さそうなものである。と考えると、「西」と表記したのにはそれなりの意味があるのかもしれない。
 710番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  み空(そら)去(ゆ)く 月(つき)の光(ひかり)に
  直(ただ)一目(ひとめ) 相(あ)[逢]ひみし人(ひと)の
  夢(いめ)にし見(み)ゆる

  空を行く 月の光で
  たった一目 お目にかかった人が
  夢に見えたことよ

[参考]本歌について、阿蘇『萬葉集全歌講義』と伊藤『萬葉集釋注』が述べているところを参考までに引用して記しておこう。

阿蘇『萬葉集全歌講義』
 月の光のもとで一目顔を合わせただけの人が夢に見えた、という歌であるが、その容姿がみやびで、印象深く忘れがたく、夢に見るに至ったという気持ちであろう。その人に贈った歌とも考えられるが、「贈る」の語がないところよりすれば、「月」を題に詠んだ歌であったかも知れない。上四句で示される情景が印象的である。

伊藤『萬葉集釋注』
 相手を思うあまりに相手が夢に見えるというのであろう。月の縁で前歌に続けて置かれたものと覚しい。内容は七〇二と似る。やはり、家持も列席する月見の宴などでの歌か。安都扉娘子の歌はこの一首のみ。
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 14:14| Comment(1) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
マ行上一段活用の他動詞「みる」の未然形「見(み)」+受身・可能・自発の助動詞「ゆ」の連体形「ゆる」(漢文の助字「所」で表記)で「見(み)ゆる」

み+ゆる だと思います
Posted by at 2019年07月31日 12:51
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