2017年05月11日

『万葉集』を訓(よ)む(その1163)

 今回は870番歌を訓む。前々歌及び前歌(868・869番歌)に続いて、天平二年七月十一日に筑前国司山上憶良が詠んだ歌三首のうちの三首目である。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。なお、左注に「天平二年七月十一日 筑前國司山上憶良謹上」とある。

  毛々可斯母 由加奴麻都良遅 
  家布由伎弖 阿須波吉奈武遠
  奈尓可佐夜礼留

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、カ音の「加」・ナ音の「奈」・ヌ音の「奴」・モ音の「毛」・ユ音の「由」・ラ音の「良」・レ音の「礼」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、ア音の「阿」・ス音の「須」が、平仮名の字源となった常用音仮名では、ハ音の「波」・ム音の「武」・ル音の「留」が使われている。その他の常用音仮名としては、カ音の「可」・キ(甲類)音の「伎」・ケ(甲類)音の「家」・サ音の「佐」・シ音の「斯」・ヂ音の「遅」・ツ音の「都」・テ音の「弖」・ニ音の「尓」・フ音の「布」・マ音の「麻」・モ音の「母」・ヤ音の「夜」が使われ、準常用音仮名ではヲ音の「遠」が、音仮名ではキ(甲類)音の「吉」が使われている。

 1句「毛々可斯母」は「ももかしも」と訓む。「毛々可」は、「ももか(百日)」。「ももか」は、「日の数の100。ひゃくにち。また、100日間。」の意で、多くの日数についてもいう。「斯母」は、副助詞「し」に係助詞「も」の重なったもので、体言・体言と同資格の語句・活用語の連用形・助詞・副詞等を受け、受ける語句を特定強調する。
 2句「由加奴麻都良遅」は「ゆかぬまつらぢ」と訓む。「由加奴」は、カ行四段活用の自動詞「ゆく(行く)」の未然形「ゆか」+打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」=「ゆかぬ」を表す。「麻都良遅」は、「まつらぢ(松浦路)」。
 1句・2句について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「百日しも行かぬ松浦路 筑前国府から玉島まで、直線距離で約四十キロ。大宰府のあった二日市から浜崎まで、JR沿いで約六十キロ、一日半の道のりである。」と注している。
 3句「家布由伎弖」は「けふゆきて」と訓む。「家布」は「けふ(今日)」。「けふ」は、511番歌他に「今日」の表記で既出、「話し手が、今身を置いている、その日。」をいう。「由伎」は、カ行四段活用の自動詞「ゆく(行く)」の連用形。「弖」は接続助詞「て」。
 4句「阿須波吉奈武遠」は「あすはきなむを」と訓む。「阿須」は「あす(明日)」。「あす」は、198番歌他に「明日」の表記で既出、「現在を基点として、次の日。」をいう。「吉奈武」は、カ行変格活用の自動詞「く(来)」の未然形「き」+完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+推量の助動詞「む」(連体形)=「きなむ」を表す。「遠」は逆接の接続助詞「を」で、「…のに」の意。
 5句「奈尓可佐夜礼留」は「なにかさやれる」と訓む。「奈尓可」は、「なにか(何か)」。「なにか」は、代名詞「なに」に係助詞「か」が付いたもので、不特定のものを指示し、疑問・反語表現に用いる。「どのようなものが(…するだろうか)。どんなことを(…することがあろうか)。」の意。「佐夜礼留」は、ラ行四段活用の自動詞「さやる(障る)」の已然形(音韻上は命令形)+完了の助動詞「り」の連体形「る」=「さやれる」を表す。「さやる」は「立ちふさがる。さしつかえる。」ことをいう。
 井村『萬葉集全注』は、この句の注として「小旅行にも出られぬ健康上の不如意を訴えているらしい。この歌があるので、憶良はこの時期に松浦道を訪れていなかったと知られ、代匠記の言うように先の松浦河の作品の作者は憶良でなくて、やはり旅人であり、吉田宜の書簡の宛先も旅人であろうと考えられることになる。」と述べている。
 870番歌の平仮名文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  ももかしも ゆかぬまつらぢ 
  けふゆきて あすはきなむを 
  なにかさやれる

  百日しも 行かぬ松浦路
  今日行きて 明日は来なむを
  何か障れる

  百日などは かからない松浦への道
  今日行って 明日は帰って来ることができるのに
  どんな差支えがあるというのでしょうか

〔参考〕先に、井村『萬葉集全注』の5句の注を引用したが、5句については阿蘇『萬葉集全歌講義』が詳しい注をつけているので、参考までに紹介しておく。

何か障(さや)れる 何が妨げているのか。憶良自身のことであるから、当然何が妨げているか、憶良はわかっているはずである。中西進氏『山上憶良』が、代匠記に「憶良ハ筑前守ニテ、輒ク境ヲ越テ、他国ニ赴ク事ヲ得へカラス」といったのを支持して、中国の規定「故唐律疏議」(巻九、四ウ)に、「刺史県令、折衝果毅、私自出 界者杖一百経坐乃宿」とあり、その疏に、「議曰、州県有境界、折衝府有地団、不因公事、私自出境界者杖一百。注云、経宿乃坐、既不云、経日即非百刻之限、但、是経宿即合此坐」とあるのを引いて、憶良は、やはり玉島までの四、五十キロの距離は日帰りできず、たとえ馬を駈って疾風のように往復したとしても「杖一百」はまぬがれることはできないから、憶良はいけなかったのだとしている。注釈は、代匠記の説に反対して、「今の人も景勝の地などへ行きたいと願ひ、それがまたいつでも行けるとかねがね思つてをりながら、その日その日の雑務などにとりまぎれて、なかなかその折が無く、自分ながら腹立たしくなるやうな気持ちで、何でこんなに行けないのだらうとつぶやく事がある、さうした気持ちに近いものがこの『何かさやれる』であると考へられる」と云っている。「なにかさやれる」のみを見ればそのような場合もあるかもしれないと思うが、国府の官人が、公務以外で任国を離れて行きたいところに行けるかどうか、甚だ疑問である。官人の規律がたもてないに相違ない。特に、この書簡には、憤りがあって、歴史的に重要な息長帯日売にまつわる伝説の場所にも注目せず、ただ風光明媚な所で遊んで来ただけではないかという公憤にも近い感情を抱いているようである。大宰帥旅人が誘ってくれれば、憶良は公務として行けたはずであった。その恨みもいささか混じっているようである。
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 16:26| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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