2018年04月10日

『万葉集』を訓(よ)む(その1260)

 今回は、930番歌を訓む。本歌は、前の929番歌に続いて、928番歌の反歌二首目である。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  海未通女 棚無小舟 
  榜出良之 客乃屋取尓
  梶音所聞

 1句「海未通女」は「海(あま)末通女(をとめ)」と訓む。この句は、同じ金村の作である366番歌の11句と同句。「海」は、「海人」(238番歌)・「海部」(256番歌の異伝)などと書くところを略したもので、この一字で「あま」と訓む。「未通女」は、「をとめ」と訓み「若々しく生命力の盛んな女」の意で、もとは成年に達した未婚の女をさしたが、のちには、一〇歳くらいから成人前の未婚の女性を広くさすようになった。「海(あま)末通女(をとめ)」は「海で働く少女。年若いあま。」をいう。
 2句「棚無小舟」は「棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)」と訓む。この句は、58・272番歌の5句と同句。「棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)」は、棚板すなわち舷側板を設けない小船のこと。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。貧弱で安定を欠く舟なので、この言葉で不安な感じ、心許ない感じを起こさせる。
 3句「榜出良之」は「榜(こ)ぎ出(づ)らし」と訓む。「榜」はガ行四段活用の他動詞「こぐ」の連用形「榜(こ)ぎ」。「出」はダ行下二段活用の自動詞「づ」の終止形「出(づ)」。「榜(こ)ぎ出(づ)」は、「船を漕ぎ出す」ことをいう。「良」はラ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)、「之」はシ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)。「良之」で以って、推量の助動詞「らし」を表わす。
 4句「客乃屋取尓」は「客(たび)の屋取(やど)りに」と訓む。この句は、546番歌2句「客之屋取尓」と「の」の表記が異なるだけで、同句。「客」を「たび」と訓むことについては、直近の913番歌でも述べたが、上代において「旅」は異族神の支配する家郷以外の地に在ることを意味したことから、その異境に在るという念いを込めて、異族神を意味する「客」の字をあてたものと考えられる。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体助詞「の」。「屋取」は、「屋取(やど)り」と訓み、動詞「やどる(宿)」の連用形の名詞化したもので、「宿をとること。旅に出て、他の家などで夜寝ること。」をいう。「尓」はニ音の常用音仮名で、格助詞「に」。「客(たび)の屋取(やど)りに」は「旅寝の折に」の意。
 5句「梶音所聞」は「梶(かぢ)の音(おと)聞(き)こゆ」と訓む。「梶音」は、509番歌32句の「梶之聲」を「梶(かぢ)の聲(おと)」と訓んだのと同じく、「梶(かぢ)の音(おと)」と訓む。「梶(かぢ)」は、船を漕ぐのにもちいる道具で、「櫓」や「櫂」の総称。「音(おと)」は、「楫(かじ)などの無生(無情)物の発する音響。衝撃・摩擦によるひびき。」をいう。「所聞」(238番歌他に既出)は、ヤ行下二段活用の自動詞「きこゆ」の終止形「聞(き)こゆ」。「きこゆ」は、動詞「きく(聞)」に、受身・自発の古い助動詞「ゆ」の付いた「聞かゆ」からできた語。「所聞」というのは漢文的表記で、受身を表す漢文の助字「所」を受身の助動詞「ゆ」にあてたもの。
 930番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  海(あま)末通女(をとめ) 棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)
  榜(こ)ぎ出(づ)らし 客(たび)の屋取(やど)りに 
  梶(かぢ)の音(おと)聞(き)こゆ

  海人の少女が 棚なし小舟を
  漕ぎ出しているらしい 旅の宿りに
  櫓の音が聞えてくる
ラベル:万葉集
posted by 河童老 at 15:06| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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