2018年05月29日

『万葉集』を訓(よ)む(その1274)

 今回は、940番歌を訓む。前歌に続いて、938番歌(以下、「長歌」という)の反歌二首目である。
 写本の異同は、4句三字目<在>を『西本願寺本』が「有」としていることが挙げられるが、『元暦校本』『類聚古集』『紀州本』いずれにも「在」とあるのでこれを採る。原文は次の通り。

  不欲見野乃 淺茅押靡 
  左宿夜之 氣長<在>者 
  家之小篠生

 1句「不欲見野乃」は「いなみ野(の)[印南野]の」と訓む。「不欲」は、「欲せず」の意から「いな[否]」を表わす義訓として、96・679・762番歌に既出であるが、ここは「いな」の音を表すための借訓字として用いたもの。「見」は「み(甲類)」の準常用訓仮名。「不欲見野」で以って、「いなみ野(の)[印南野]」を表す。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体助詞「の」。この句は、表記は異なるが、「長歌」5句の「稲見野能」と同句。「印南野」は、兵庫県の南部、淡路島の対岸に近い加古郡稲美町、および加古川市・明石市一帯をいう。
 2句「淺茅押靡」は「淺茅(あさぢ)押(お)し靡(な)べ」と訓む。「淺茅(あさぢ)」は「丈の低いチガヤ(イネ科の多年草)。『日本国語大辞典』は、「浅茅」の「語誌」に次のように記している。

(1)チガヤを和歌では「浅茅・浅茅生・浅茅原」の形で詠むことが多い。「万葉集」では秋の訪れとともに色づくと詠んで季節感を表わす景物に過ぎないが、平安時代には恋人の心変わりを、秋風で変色する浅茅の色変わりにたとえるようになる。「秋」は「飽き」、「浅茅」は愛情が「浅し」、変色が心変わりの意である。
(2)平安中期になると、一面に生えることから「浅茅原ぬしなき宿」といって荒れ果てた邸宅の象徴となり、「浅茅生の宿」「浅茅が原」の歌語が生じ、その葉に置く露を「浅茅が露」といってはかないもののたとえとし、さらに中世には「浅茅の月」と枯れ果てた浅茅と冷たく冴える月光を取り合わせて寂寥感漂う美を表わすようになる。

「押靡」(45番歌14句に既出)は、バ行下二段活用の他動詞「おしなぶ」の連用形「押(お)し靡(な)べ」。「おしなぶ」は、「むりに力を加えてなびかせる。また、一様になびかせる。」ことをいう。
 3句「左宿夜之」は「さ宿(ぬ)る夜(よ)の」と訓む。「左宿夜」は、135番歌13句に既出で、そこでは、過去の助動詞「き」の連体形「し」を補読して「さ宿(ね)し夜(よ)」と訓んだが、ここはそのままで「さ宿(ぬ)る夜(よ)」と訓む。「左」は、サ音の常用音仮名(平仮名の字源)で、接頭語の「さ」に用いたもの。この「さ」は、名詞・動詞・形容詞の上に付いて、語調をととのえる働きをするもので、実質的な意味はない。「宿」はナ行下二段活用の自動詞「ぬ」の連体形「宿(ぬ)る」。「夜」は「よ」で、「日没から日の出までの間。」をいう。ここの「之」は漢文の助字で、格助詞「の」に用いたもの。
 4句「氣長在者」は「け長(なが)くし在(あ)れば」と訓む。「氣」は、ケ(乙類)音の常用音仮名で、日数の意の「日(け)」を表わすのに用いられている。ケは日(ひ)の複数で、二日以上にわたる場合に用いる。「長」はク活用形容詞「長し」の連用形「長(なが)く」で、下に副助詞「し」を訓添えて「長(なが)くし」と訓む。「在者」(482番歌他に既出)は、ラ行変格活用の自動詞「あり」の已然形に、順接の確定条件を表す接続助詞「ば」が付いた形で、「在(あ)れば」。
 なお、この句の訓みについて、澤潟『萬葉集注釋』が詳しく注しているので、それを引用しておこう。

 舊訓ケナガクアレバを略解にケナガクシアレバとし、攷證、古義など從つたが、新考に「シといふ助辭五句なると重なれば舊訓の如くケナガクアレバとよむべし」と云つて以後諸注多く舊訓によつたが、全釋には、
 戀ふる日の氣長有者(ケナガクシアレバ)み苑生のからあゐの花の色に出にけり(十・二二七八)
 大君の遠のみかどと思へれど氣奈我久之安礼婆(ケナガクシアレバ)戀ひにけるかも(十五・三六六八)
などの例により「シを補つてよむがよい。」とある。結句の「し」と強意の助詞の重複の例には、「如是耳志(カクノミシ) 戀思渡者(コヒシワタレバ)」(九・一七六九)、「和我勢故之(ワガセコシ) 可久志伎許散婆(カクシキコサバ)」(廿・四四九九)の如きがある。前にも「与妹不宿者(イモトシネネバ) 肌之寒霜(ハダシサムシモ)」(四・五二四)があり、その第四句の「し」はやはり訓添である。ここはシを入れると八音になるがその下にアの音があつて字餘例にかなひ、右の巻四の場合と極めて似た調子のもので、この歌サ行音がくりかへされてをり、調子もよく感慨もこもる。

 5句「家之小篠生」は「家(いへ)ししのはゆ」と訓む。この句は、66番歌5句の「家之所偲由」と表記は異なるが同句。「家(いへ)」は「自分の住まい。わが家。故郷の家。」の意。ここの「之」はシ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、副助詞「し」。「小篠生」は、ハ行四段活用の他動詞「しのふ」の未然形「しのは」+自発の助動詞「ゆ」=「しのはゆ」を表す。「小篠」は「しの」を、「生」は「はゆ」を表すための借訓字。
 940番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  いなみ野(の)[印南野]の 淺茅(あさぢ)押(お)し靡(な)べ
  さ宿(ぬ)る夜(よ)の け長(なが)くし在(あ)れば
  家(いへ)ししのはゆ

  印南野の 浅茅を押しなびかせて
  眠る夜が 長くつづいているので
  故郷の家が恋しく思われる
posted by 河童老 at 15:31| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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