2019年04月01日

新元号「令和」について

河童老「『万葉集』を訓(よ)む」では、新元号の典拠となった「梅花歌卅二首[并序]」について、千百三回で取り上げましたので、ここにその回の全文を再掲しておこうと思います。

『万葉集』を訓(よ)む(その千百三)

今回から、815番歌の題詞に「梅花歌卅二首[并序]」とある、「梅の花」を詠んだ三十二首(815番歌〜846番歌)を訓んでいくことになるが、今回は、題詞に「并(あは)せて序」とあるところの序文を訓む。その原文は次の通り。

 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。
 梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、
 鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是、盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室
 之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅
 之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅、聊成短詠。

 これを訓み下すと、

 天平(てんぴやう)二年正月(しやうがつ)十三日に、帥老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつま)りて、宴會(えんくわい)を申(の)ぶ。時に、初春(しよしゆん)
 の令月(れいげつ)にして氣淑(よ)く風和(やわら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かを)らす。
 加以(しかのみにあらず)、曙(あさけ)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕(ゆふへ)の岫(くき)に霧(きり)結
 び、鳥は縠(うすもの)に封(と)ぢられて林に迷(まと)ふ。庭に新蝶(しんてふ)舞ひ、空に故鴈(こがん)歸(かへ)る。ここに、
 天を盖(きぬがさ)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、
 衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)に自(みづか)ら放(ゆる)し、快然(くわいぜん)に自(みづか)ら足りぬ。もし翰苑(かんゑん)
 にあらずは、何を以(もち)てか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す。古(いにしへ)と今と夫(そ)れ
 何か異(こと)ならむ。宜しく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠(たんえい)を成すべし。

 【語釈】
「天平(てんぴやう)二年正月(しやうがつ)十三日」 天平二年は、七三〇年。正月十三日は、現行暦の二月八日。大宰府付近の梅は、最近でも、暖かい年は、二月八日頃、遅くても二十日頃には開花するという。(阿蘇『萬葉集全歌講義』より。以下、(『全歌講義』より)と略記。)
「帥老(そちのおきな)」 大宰帥大伴旅人を指すのだが、これが旅人の自称であるか、旅人以外の者の筆による敬称であるか、序文の作者の推定とからんで論議が有る。漢籍での「老」の用例をかれこれ示して、古沢未知男氏(「『梅花歌序』と『蘭亭集序』」『漢詩文引用より見た万葉集の研究』)は、尊称と卑称のいずれにも用いられるとしているように、この文字の上からは決定しかねるようである。土屋文明氏(『旅人と憶良』)は、帥は官名であり、官名だけを今のように、称するのは大臣以上に限られた至極の尊称である、と言う。また私注にも敬称であるとして、この序文は憶良の作文であるとしている。しかし、公式令(くしきりよう)の、授位任官の日の喚(め)サム辞(ことば)の規定「三位以上ハ直ニ姓称セヨ。若シ右大臣以上ナラバ官名称セヨ」という条文を今の場合に拡張解釈はできまい。今の場合は風流の宴の記録である。また令の条文の規定に従うなら「帥老」ではなくて、正式には「(大宰)帥大伴宿袮」と称するのでなけらばならない。ちなみに、帥邸は、今都府楼址の西北方に内裏という字のあるあたりであったと言われている。(井村『萬葉集全注』より。以下、(『全注』より)と略記。)
「宴會(えんくわい)を申(の)ぶ」 「申」は、一般に、延ばす・述べる、意であるが、会を催す意にも用いる。「至于季秋、毎与文人才子、集習宜之別業、申文会也」(『家伝』下巻「武智麻呂伝」)。(『全歌講義』より)
「令月(れいげつ)」 よい月。ここは正月をほめていう。(『新編日本古典文学全集』頭注より。以下、(「頭注」より)と略記。) 
「氣淑(よ)く風和(やわら)ぐ」 この「気」は気象・気候。この前後、「蘭亭序」の「是ノ日ヤ、天朗ラカニ気清ク、恵風和暢ナリ」による。(「頭注」より)
「鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)・珮後(はいご)の香(かう)」 梅の白さと蘭の香とを、それぞれ美人の鏡前の白粉の色と、珮(帯の飾り玉)に添う匂い袋の香にたとえる。(『全注』より)
「羅(うすもの)・縠(うすもの)」は、「羅(ら)、紗(しゃ)などの薄い絹織物。」のことをいう。ここは、雲霧を喩えて言ったもの。
「岫(くき)」には、(1)山の斜面やがけにあるほらあな。(2)山頂。山の峰。の意があるが、ここは(2)。
「故鴈(こがん)」 去年渡ってきた雁。春の雁をさす。「故」は「新蝶」に対して用いた字。(「頭注」より)
「天を盖(きぬがさ)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし」 この前後、『淮南子(えなんじ)』原道訓の「天ヲ以テ蓋ト成シ、地ヲ以テ輿ト為ス」などによる。心を大きく持ち、悠然とすることの形容。(「頭注」より)
「膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす」 「膝を促け」とは、互いに親睦すること、「觴を飛ばす」とは、酒杯を回すことをいう。「觴」は酒杯の総称。(「頭注」より)「言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ」 一つの部屋の中で、言葉も無用なほどくつろぎ。「蘭亭序」の「言ヲ一室ノ内ニ悟ル」による。(「頭注」より)
「衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外に開く」 衿をゆるめくつろいで外気に対する。(『全歌講義』より)
「淡然(たんぜん)に自(みづか)ら放(ゆる)し」 あっさりしてこだわらないこと。(「頭注」より)
「快然(くわいぜん)に自(みづか)ら足りぬ」 快い状態で、満ち足りた気分である。(『全歌講義』より):「蘭亭序」にある句をそのまま用いた。(「頭注」より)
 
「翰苑(かんゑん)」 本来は、文苑・詩壇などの意。ここは、詩文をさす。(『全歌講義』より)
「詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す」 詩は漢詩を指す。(中国における)漢詩にも、の意。細井本により、「請」の字を取る説もあるが、「古今夫何異矣」が続く文としては、底本の本文「詩」の方がよい。(『全歌講義』より):詩の文字、細井本や板本に請とあり、それだと「請フ、落梅ノ篇ヲ紀(しる)セ」と訓める。しかし篇はやはり詩篇の意味であろうから、三十一文字の短詠を「落梅ノ篇」と言ったかどうか心許ない。注釈も言うように次の「古今夫何異矣」との関係からも、詩の文字をとりたい。詩は、漢詩一般を指す。(『全注』より)

【口訳】(『全注』によった)
天平二年正月十三日、帥老(そちろう)邸に寄りこぞって宴会を催す。折しも初春の良き月、大気あくまで快く、風やわらぐ。梅は鏡前の白粉にまごうて咲き、蘭は帯の匂い袋のように香る。更には、曙の嶺に雲がたなびき、松はうすものの絹笠(きぬかさ)を傾けたよう。夕の峰に霧が立ちこめ、鳥は霞のうすぎぬにとじこめられて林の中を迷い飛ぶ。庭に舞うのは今年の蝶、空を渡るのは去年の雁。ここに天を絹笠とし大地を敷き物として、思うどち膝を接し酒杯を飛ばす。一堂に会する者、内には言葉も忘れて心を通わせ、外には煙霞に向かって襟をくつろげる。さっぱりと自由な思い、快く満ち足りた気分、文筆以外にどうしてこの喜びが表現できよう。唐土には落梅の詩篇の数々がある。昔と今と何で異なろう。さあ我々も園梅を題として短歌を唱詠しようではないか。
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2019年03月19日

「河童老『万葉集』を訓む」の文庫本6冊目刊行

 この度、「河童老『万葉集』を訓む」の文庫本6冊目を刊行する運びになりました。今回は、2013年8月22日から12月2日までに書いたブログ分です。5年以上も経っているので、今、考えると理解が浅い点なども見られますが、書き換えは敢えてせず、その当時のままにして置くことにしました。内容は、歌番号でいえば、巻二の220番歌〜巻三の269番歌ということで、巻二の「挽歌」の後半部分から巻三「雑歌」の前半部分までを収録しています。
まず、柿本人麻呂の「狭岑島死人歌」(220〜222番歌)から始まり、同じく人麻呂の作で「臨死時自傷作歌」(223番歌)が続き、この歌の後に、人麻呂の死の知らせを聞いた妻依羅娘子の二首の挽歌(224・225番歌)、人麻呂の心で詠った丹比真人の歌(226番歌) ならびに妻の立場で詠った作者不明の或本の歌(227番歌)が続き、223〜227番歌の五首で一つの歌群を形成しています。その人麻呂の「臨死歌」と呼ばれる歌群をめぐる諸説については、閑話休題として考察をしています。続いて、巻二の最後に追補で掲載されたと思われる「寧樂宮(ならのみや)」の時代の「挽歌」七首(228〜234番歌、うち230番歌は長歌)で巻二が終わります。
 次に、巻三の雑歌にすすみます。巻三の冒頭は、「天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」(235番歌)から始まり、「天皇と老女との問答歌」(236〜237番歌)「長忌寸意吉麻呂應詔歌一首」(238番歌)と続きます。そしてその後には、柿本人麻呂の「長皇子への献歌」と称される歌群(239〜241番歌)があります。これに続いて「弓削皇子遊吉野時御歌一首」(242番歌)とそれに答えた「春日王奉和歌一首」(243番歌)および242番歌の異伝「或本歌一首」(244番歌)、また「長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首」(245〜246番歌)とそれに答えた「石川大夫和歌一首 [名闕] 」(247番歌)および「又長田王作歌一首」(248番歌)があり、ついで「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」(249〜256番歌)となります。そして次に「鴨君足人香具山歌一首[并短歌]」「反歌二首」(257〜259番歌)と257番歌の異伝「或本歌云」(260番歌)のあと、「柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首[并短歌]」「反歌一首」(261・262番歌)があり、「従近江國上来時刑部垂麻呂作歌一首」(263番歌)と「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」(264番歌)がこれに続きます。264番歌の解釈については、閑話休題で『萬葉集全注』の論説を紹介しています。残りの五首(265〜269番歌)は、「長忌寸奥麻呂歌一首」「柿本朝臣人麻呂歌一首」「志貴皇子御歌一首」「長屋王故郷歌一首」「阿倍女郎屋部坂歌一首」ということになります。
今回は、長歌六首と短歌四十四首の計五十首を収録しましたが、うち柿本人麻呂の歌が一番多く、長歌三首と短歌十七首の計二十首を占めています。
 以上、文庫本6冊目の内容紹介となりますが、読者諸氏からのご指摘ご批判を頂ければ幸甚に存じます。
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2019年01月11日

『万葉集』を訓(よ)む(その1331)

 今回は、986番歌を訓む。前歌に続いて「湯原王月歌二首」の二首目で、「湯原王(ゆはらのおほきみ)」が「月(つき)」を詠んだ歌である。
 写本に異同はなく、原文は次の通り。

  愛也思 不遠里乃 
  君来跡 大能備尓鴨 
  月之照有

 1句「愛也思」は「愛(は)しきやし」と訓む。この句は、454番歌1句・466番歌5句・787番歌3句の「愛八師」と「やし」の表記は異なるが、同句。「愛」はシク活用形容詞「はし」の連体形で「愛(は)しき」。「はし」は「いとおしい。かわいらしい。慕わしい。」の意。「也」はヤ音の準常用音仮名、「思」はシ音の音仮名で、間投助詞「や」と「し」を表わす。この句は、3句の「君」を修飾する。この句について、吉井『萬葉集全注』は次のように注している。

○はしきやし ハシは愛恋や親愛の詠嘆的表現。その連体形ハシキに間投助詞ヤシがついたもの。愛(は)し妻(8・一五二一)。愛しき(2・二二〇、3・四七四、18・四一三四)。またハシキヨシ(5・七九六、17・三九六四)やハシケヤシ(4・六四〇、6・一〇五九)の形としても用いられる。なお、第一句を独立句とする説(私注)、君を修飾するが、独立句への傾向があるとする全註釈説、里にかかるとする注釈説がある。君を修飾すると見るのが妥当であろう。

 2句「不遠里乃」は「不遠(まちか)[間近]き里(さと)の」と訓む。「不遠」は、「遠からず」の義から、ク活用形容詞「まちかし」の連体形「間近(まちか)き」の表記にあてたもので、義訓。「里(さと)」(952番歌他に既出)は、「人家のあつまっている所。人の住んでいる所。村落。」をいう。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体助詞「の」。
 3句「君来跡」は「君(きみ)来(こ)むと」と訓む。「君(きみ)」は「敬愛する人」をさしていう語で、女から見て男をいうことが普通だが、稀に男性同士、女性同士にも用いられた。「来」カ行変格活用の自動詞「く」の未然形「こ」に推量の助動詞「む」を訓み添えて「来(こ)む」と訓む。「跡」は「と(乙類)」の常用訓仮名で、接続助詞「と」。
 4句「大能備尓鴨」は「大(おほ)のび[大野辺]にかも」と訓む。「大能備尓」の訓みについては、「大野辺(び)に」とする『萬葉考』と、「大伸(の)びに」とする『萬葉集全註釈』の二説があるが、澤瀉『萬葉集注釋』の論説(後ろに[参考]として引用しておく)を支持して、前説を採ることとする。前説の欠点は、「能」がノ(乙類)音の常用音仮名であり、一方「野」を表す仮名は「努」「弩」などの甲類であることであるが、この甲乙の混同は早くから見られるのでここもその例と見てよい。「備」はビ(乙類)音の常用音仮名で、「辺(び)」を表す。「尓」はニ音の常用音仮名で、場所を示す格助詞「に」。「鴨」は疑問の係助詞「か」+詠嘆の係助詞「も」=「かも」を表すための借訓字。
 5句「月之照有」は「月(つき)の照(て)りたる」と訓む。「月(つき)」は710番歌他に既出で「天体の月」。「之」は漢文の助字で、格助詞の「の」。「照有」は、ラ行四段活用の自動詞「てる」の連用形「照(て)り」+完了・存続の助動詞「たり」の連体形「たる」(「有」で表記)=「照(て)りたる」。「たる」と連体形となっているのは4句の係助詞「か」の結び。「たり」を「有」で表記しているのは、「たり」が「てあり」の約であることによる。
 986番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  愛(は)しきやし 不遠(まちか)[間近]き里(さと)の
  君(きみ)来(こ)むと 大(おほ)の[大野]びにかも
  月(つき)の照(て)りたる

  愛おしい 遠からぬ里の
  あのお方がいらっしゃるというので 大野の辺りに
  月が照っているのでしょうか

[参考] 澤瀉『萬葉集注釋』の4句の注に次のようにある。

 大野びにかも ― 袖中小(十六)に「或書云おほのひにとはゆたかにしつかなりといふ也是江都督説也」とあるを代匠記に引いて「カヽレバ大キニノビノビニト云意ニテ極テ長キ夜ノ月ノ行トモ見エズシテ照ヲ云ナリ」といひ、考に「備(ビ)は倍(ベ)に通て大野べにかも歟海邊(ウナビ)といふに同じければ」といひ、大野邊説が行はれてゐるが、「野」は努、弩などの假名であり、「能」ではないので、全註釋には「大伸びで、月の大きく照り渡る状態を説明し、また月も君の來るのを待つとする心を含んでゐるのであらう」とあるが、どうも「大伸び」といふ言葉はをかしい。新考には「野」を「能」と書いた例として「波流能能尓」(五・八三九)があげられてゐるがこれは附訓本以下の誤であつて、類以下無まで諸本に「努」とあつて例にはならない。巻十八には助詞「の」に「野」を用ゐた例(四〇四七、その他)があるが、これは大野晋氏が「萬葉集巻十八の本文に就いて」(國語と國文學 第廿二卷第三號、昭和廿年三・四月)で述べられた如く、萬葉の原文に手を加へたものとして見るべきものである。その他に、「信濃奈流(シナヌナル) 須我能安良能尓(スガノアラノニ)」(十四・三三五二)が東歌ながらあり、又、正倉院文書(十三巻三一〇頁)に「不野里(フノリ)」の例があつて、野を「能」と同様に扱つた事もないとは云へず、篠(甲類)を「四能(シノ)」(一・四五)と書いた例もあつてノの甲乙の混同は比較的早いやうに思はれるのであるから、この「大能」も大野と見てよいと考へる。「備(ビ)」は「乎加肥(ヲカビ)」(五・八三八)、「濱備(ハマビ)」(一〇〇一、五・八九四)などの「び」と同じく「邊」の意に解してよい。「か」の疑問は結句の「照りたる」にかかる。新考に「カモは元來キミコムトの下におくべきを言數に制せられて大ノビの下におけるなり」とある。
  島かげに我が船泊てて告げやらむ使を無みや戀ひつゝ行かむ(廿・四四一二)
の「や」が「戀ひつゝ」の下にあるべきであると同様である。「も」は詠嘆。
posted by 河童老 at 11:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする