2017年06月06日

『万葉集』を訓(よ)む(その1169)

 今回は876番歌を訓む。題詞に「書殿餞酒日<倭>歌四首[書殿(ふみどの)にして餞酒(うまのはなむけ)する日の倭歌(やまとうた)四首]」とあって、本歌〜879番歌の四首は、旅人の上京にあたって、「書殿で送別の宴を開いた日」に詠まれた歌で、作者は明記されていないが、山上憶良と考えてまず間違いない。
 写本の異同として、まず題詞の<倭>がある。『西本願寺本』に「和」とするが、これはのちに改めたもので、『類聚古集』『紀州本』『細井本』に「倭」とあるのが正しい。澤潟『萬葉集注釋』に「『倭歌』は漢詩に對する和歌の意。西本願寺本に『和謌』とあるのは後に改めたもので、この頃まだ『やまとうた』の意で『和歌』とは書かない。」とある。本歌の写本の異同は、3句四字目<麻>にある。『西本願寺本』以下の諸本はこれを「摩」とするが、『類聚古集』『紀州本』『温故堂本』に「麻」を採る。原文は次の通り。
 
  阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 
  美夜故<麻>提 意久利摩遠志弖
  等比可弊流母能

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。
 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、ク音の「久」・ヒ(甲類)音の「比」〈本歌では、ビ(甲類)音として使用。〉・リ音の「利」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、ア音の「阿」・ル音の「流」が、平仮名の字源となった常用音仮名ではミ(甲類)音の「美」が使われている。その他の常用音仮名としては、オ音の「意」・カ音の「可」・ガ音の「賀」・シ音の「志」・テ音の「弖」・ト(乙類)音の「等」・ニ音の「尓」・ノ(乙類)音の「能」・ブ音の「夫」・ヘ(甲類)音の「弊」・マ音の「麻」・モ音の「母」・ヤ音の「夜」が使われ、準常用音仮名では、コ(甲類)音の「故」・デ音の「提」・ヲ音の「遠」が、音仮名ではマ音の「摩」が使われている。なお、準常用音仮名の「遠」は、平安時代には常用されるようになり平仮名の字源となった。

 1句「阿麻等夫夜」は「あまとぶや」と訓む。この句は、207番歌1句「天飛也」及び543番歌7句「天翔哉」と同句で、その仮名書き。「阿麻等夫」は「あまとぶ」で、「大空を飛ぶ」という意のバ行四段活用の自動詞。「夜」は間投助詞の「や」。「あまとぶや」は「大空を飛ぶ」意から「鳥」「雁」また「雁(かり)」と類音で地名の「軽(かる)」にかかる枕詞として使われた。ここは次句の「とり(鳥)」にかかる枕詞として用いたもの。
 2句「等利尓母賀母夜」は「とりにもがもや」と訓む。「等利」は「とり(鳥)」。「尓」は断定の助動詞「なり」の連用形「に」。「母賀母夜」は、願望の意を表す終助詞「もが」に詠嘆の終助詞「も」「や」が付いた「もがもや」を表し、「もがも」より強い詠嘆が込められる。「とり(鳥)にもがも」は、534番歌12句に既出。この「にもがも」について、木下『萬葉集全注』は、534番歌10句の「雲にもがも」の注として「モガ(モ)は、自らの願望にも他人に対する希求にも用いる。ここは前者。このモガ(モ)は、アハビ玉(体言)−モガ、長ク−モガモ、共ニ−モガモ、斯クシ−モガモなどのように、すべて存在詞アリに続くべき形を受けるため、この「雲にもがも」や「玉にもが」(七三四)のニは断定の助動詞ナリの連用形であるべきだが、民間語源的解釈として、あたかもそのニは格助詞、そしてモは、せめて〜なりとも、の意の副助詞ダニに通ずる意味用法のそれ、ガモはそれで一まとまりをなす願望の終助詞というような理解がなされていたらしい。」と述べ、そのような解釈は、「常丹毛冀名(つねにもがもな)」(22番歌)、「花尓欲得(はなにもが)」(306番歌)、「雲尓毛欲成(くもにもがも)」・「鳥尓毛欲成(とりにもがも)」(534番歌)などの表記にも反映されていると指摘している。
 3句「美夜故麻提」は「みやこまで」と訓む。「美夜故」は、「みやこ(都)」で、「奈良の都」をいう。「麻提」は、副助詞「まで」。体言・活用語の連体形・助詞などを受けて、事態の至り及ぶ時間的・空間的・数量的限界を示す。
 4句「意久利摩遠志弖」は「おくりまをして」と訓む。「意久利」は、ラ行四段活用の他動詞「おくる(送る)」の連用形「おくり」。「おくる(送る)」は、「守りながら、行く人につき従う。」ことをいう。「摩遠志」は、サ行四段活用の他動詞「まをす」の連用形「まをし」。「まをす」は、上代末ごろから、「まうす」の形に変化し、さらにそれが「もうす」になる。ここは補助動詞として、上の「おくる」という動作の対象を敬う意を添えたもの。「弖」は接続助詞「て」。
 5句「等比可弊流母能」は「とびかへるもの」と訓む。「等比」は、バ行四段活用の自動詞「とぶ(飛ぶ)」の連用形「とび」。「可弊流」は、ラ行四段活用の自動詞「かへる(帰る)」(連体形)。「母能」は、終助詞「もの」を表す。井村『萬葉集全注』には「モノは、モノヲに同じ。」とあり、阿蘇『萬葉集全歌講義』には「『もの』は、活用語の連体形について、感動の意をあらわす終助詞。……のだがなあ。」とある。『古典基礎語辞典』の「もの」の解説では、「終助詞として使われているモノもある。基本的には名詞のモノの意味を受け継ぎ、活用語の連体形に接続して『…と決まっている』の意で用いる。しかし、上に実際はそうでないことを表す語(願望の終助詞モガモや反実仮想の助動詞マシ)がくると、『(もしそうなら)…するに決まっているのになあ』と逆接の意味を表す。同じ逆接を表す終助詞モノヲは上に特定の語を要求しない。」と述べて、後者の例として、本歌を挙げている。
 876番歌の平仮名文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  あまとぶや とりにもがもや 
  みやこまで おくりまをして 
  とびかへるもの

  天飛ぶや 鳥にもがもや 
  都まで送りまをして
  飛び帰るもの

  大空を飛ぶ 鳥でありたいものだなあ(もしそうなら)
  都まで あなたをお送りして
  飛び帰ってくるのになあ
タグ:万葉集
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2017年06月01日

『万葉集』を訓(よ)む ー閑話休題ー 「佐用姫歌群」の作者について

 前回まで「松浦佐用姫の歌」五首(871〜875番歌)を訓んできたが、今回は閑話休題として、この「佐用姫歌群」の作者について考えてみることとしたい。阿蘇『萬葉集全歌講義』は、この歌群の【歌意】に、作者についての諸説を紹介しながら、五首全てを憶良作とする説を述べているので、まずそれから見てみよう。

【歌意】 山上憶良は、天平二年七月、肥前国松浦川に遊んだ大伴旅人からその時の歌と序文を示され、神功皇后と佐用比売伝説で知られたその地を訪れる機会がない憾みを三首の歌に託した。本歌群は、それに端を発してほとばしり出た、松浦佐用比売に対する思いを歌に綴ったものであろう。佐用比売伝説を漢文で記述し、佐用比売の悲嘆を五首の歌に表している。その作者に関しては諸説あって、八七四・八七五の二首のみは、憶良説が広く認められているものの、前の三首に関しては、旅人説・旅人随行者説・大宰府官人説などあって定まらない。全註釈は、序及び八七一から八七五までの五首すべてを旅人としたが、注釈は、序及び八七一〜八七三を旅人作、八七四・八七五を、続く憶良作七首と共に憶良作とした。これに対して、中西進氏『山上憶良』は、序及び八七一を原作者A、八七二を第一追和者B、八七三を整理者Cの作として、最後の二首を、続く憶良作と連続する憶良の作とした。更に、序と八七一の第一首のみを旅人とし、八七二・八七三の二首は大宰府官人、八七四・八七五は、憶良とする説が、稲岡耕二氏『万葉表記論』、集成によって説かれている。「後人追和」「最後人追和」「最最後人追和」とあるによれば、たしかにそれぞれ別人とみることになるが、八六一以下の三首に題する「後人追和詩三首」の「後人」が、序及び八五三・八五四の作者である旅人自身とみる説もあるように、後人を装って、詠み足りぬ思いを次々に歌にしたとみることも可能である。自分が松浦を訪ねて詠んだ歌に対する不満を、憶良から吐露された旅人が、早速に憶良の意を迎えるような歌を詠んで示したとも思えない。五首を四人の作とする説は、単に題詞に忠実なだけではなく、用字の特徴をも指摘してのものではあるが、それぞれが別個に独立して表記された歌の寄せ集めではなく、伝えられた歌を引き継いで詠まれ記述されたものであるから、影響されもし、逆に異なる文字を採用するという形になることもあり得るに相違ない。五首すべてを憶良作とする吉井巌説(「サヨヒメ誕生」万葉 昭和四六年六月)もある。筆者もはじめに記したように、思い切った書簡文に、八六八以下の三首を詠んで旅人に贈った憶良が、なお払い切れぬ思いを五首の歌に託したとみたい。これには「謹上」とも記していないから、自身の歌巻に記録するのにとどめたのであろう。なお、全注は、「旅人送別の心をこめて、佐用姫の悲別の話を材料とした一群の歌を作ろうと相談がまとまり、歌を持ち寄る。八七一〜八七三の三首に憶良が八七四〜八七五の二首を加え、後人・最後人等の追和に仕立てて、序文を添える。送別の宴席では、複数の人が相継いで歌い、最後の二首を宴の主人憶良唱詠でしめくくった」という、制作事情も考えられはしないか、と記している。三年間大宰帥として、大宰府官人らにも憶良にも、大きな影響を持ったと考えられる大伴旅人の遷任帰京を知った彼らが、そのような遊びを思いつくかどうか、いささか疑問に思う。

 以上の引用からも分かる通り、「佐用姫歌群」五首のうち「最最後人追和二首」の題詞のある874・875番歌の作者は、山上憶良であるということは全註釈を除いて各説ともが認めており、それに違いないと思う。しかし、五首すべてを憶良作とするのはどうであろうか。
 芳賀紀雄「天平二年十二月六日謹上歌」(『万葉集を学ぶ』第四集)は、「佐用姫歌群」を、この憶良「謹上歌」の中に含めて論じているので、次にそれを見ておこう。
                       
〔範囲〕 天平二(七三〇)年の冬、大宰府は、あわただしげな雰囲気につつまれていた、と想像される。それというのも、中納言兼大宰帥として赴任していた大伴旅人が、大納言(帥兼帯)に昇進し、上京する予定になっていたからである。去る九月八日、大納言多治比池守(たじひのいけもり)が薨(こう)じたためをもって、旅人に下命された(『公卿補任』一〇月一日)という次第であった。 
 旅人の出立は、一二月初旬とおぼしく、直前に、大宰府の官人および筑前国守山上憶良らによって、送別の宴が張られたようである。巻五に収める「書殿にて餞酒する日の倭歌(やまとうた)四首」(5・八七六〜八七九)が、その間の事情を伝えるものだろう。作者は明記されていないが、続いて「敢へて私の懷(おもひ)を布(の)ぶる歌三首」(5・八八〇〜八八二)があり、「天平二年十二月六日筑前国守山上憶良謹上す」との一文が付されている。してみると、以上の七首が、まずは憶良の作品と認められよう。先の四首については異論がないわけでなく、表記の面から、数人の、しかも九州の人の手になるという推定もなされている(土居光知『古代伝説と文学』)。しかし、諸注が、歌の内容から憶良作と見なしてきたことを、同じく表記の再検討を通じて補強こそしうるが、否定すべき徵証は探り出せない(稲岡耕二『万葉表記論』)。
 かくて、「謹上歌」の範囲もまた、契沖の『万葉代匠記』以来、この七首とされるのが一般であった。ただし古くは、前のいわゆる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の歌群(5・八七一〜八七五)にまで及ぶとされていたらしい(一条兼良『歌林良材集』)。佐用姫関係の歌はすべて五首、序文と歌(5・八七一)・「後人追和」(5・八七二)・「最後人追和」(5・八七三)・「最々後人追和二首」(5・八七四〜八七五)という構成になっている。作者名は秘されているが、一連の作である。そして、この歌群と「書殿にて餞酒する日の倭歌」以下との間に、区切るべき根拠のないことも、事実であろう。おそらくは当面の十二首が一団となって、さらに前の、七月一一日の憶良謹上歌(5・八六八〜八七〇)に接していると想定するのが当を得ている。一二月六日には、三種の歌群が、憶良から旅人に贈られたわけである。
〔佐用姫歌群の作者帰属をめぐって〕 憶良が謹上したとはいっても、佐用姫の五首を、いずれもかれの作と断定することは早計にすぎる。憶良どころか、他方ではこの連作を独立させ、すべてを旅人の作品と見る向きさえ多くあった。(武田祐吉『万葉集全註釈』など)。だが、すくなくとも、「最々後人追和二首」のみは、憶良に帰属すると捉えてよいかと思う。
  海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領巾(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫(5・八七四)
  行く船を振り留みかねいかばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫(5・八七五)
 その論拠としては、松浦佐用姫の原文表記が、二首とも「麻都良佐欲比売(まつらさよひめ)」とあって、憶良の七月一一日謹上歌の「麻都良(○○○)我多(がた)佐欲比売(○○○○)能故何(のこが)」(5・八六八)に一致すること。次に第二首の「留みかね」は、「留む」を上二段に活用させたもので、「世の理(こと)なれば留みかねつも」(5・八〇五)ともあるように、憶良に特徴的なこと(通常は下二段で「とどめ(○)かね」)。さらに「み」の表記「尾」が、集中一〇例で、それがすべて憶良の作、もしくはそうと推定される作品に限られていること。以上を挙げうる(澤潟久孝『万葉集注釈』)。
 もとより、これが残り三首の作者を認定する決め手とはなりえず、わけても重要な第一首からして、憶良説(木下正俊「蓬客と松浦佐用姫」日本古典文学全集本『万葉集』二、補論)と旅人説が対立を見せている。なかで、稲岡(前掲書)の、順に旅人−某別人−某別人、そして憶良へと跡づける提説が、説得力に富む。
〔筑紫歌壇の終曲〕 いずれにせよ、佐用姫の歌群は、作者を意識的に韜晦させることによって、風雅な境地に遊ぶのが主眼となっている。諸人が廻りもちで合作した結果が、旅人に贈られれば事足りたはずである。ただ、ここで内容に立ち入ってみると、一群のうち前の三首、
  遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまご)ひに領巾(ひれ)振りしより負へる山の名(5・八七一)
  山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上(へ)に領巾を振りけむ(5・八七二)
  万代(よろづよ)に語り継(つ)げとしこの岳(たけ)に領巾振りけらし松浦佐用姫(5・八七三)
が、どちらかといえば伝承そのものに興味を集中させているのに対して、憶良の二首には、「帰れ」「振り留みかね」のように、悲別の情が色濃く滲んでいることに気づく。むろん憶良のばあい、序の「即ち高き山の嶺に登り、遥かに離(さ)り去(ゆ)く船を望み、悵然(ちやうぜん)に肝(きも)を断ち、黯然(あんぜん)に魂(たま)を銷(け)つ」と対応し、全体の階調を乱しているわけではない。しかし、これを含む歌群が、以下の七首とともに旅人に献呈されたとするならば、たんなる追和歌にとどまらぬ意味を担うのではないか。すなわち「一つのまとまつた旅人と憶良の悲別哀歌」(大浜巌比古「巻五について考へる」『澤潟博士喜寿記念 万葉学論叢』)とされるゆえんだが、先の三首からそれを見て取ることは、無理だろう。
 ならば、両者には製作時期のずれがあったと推測するのが、的(まと)を射ている。その間に、旅人の大納言昇進の一件が介在しているのだ、と考えてよい。初めの歌と序が旅人の手で用意されたのは、巻五の排列順から推して、七月一一日の憶良謹上歌の後であろうが、後人・最後人と追和されてゆくうちに、旅人の帰京が決定的になったものと察知される。そこで憶良は、みずからの追和歌を、旅人送別の歌とせざるをえなかったのだろう(稲岡耕二「大伴旅人・山上憶良」『講座 日本文学』2)。たとい、憶良から発して、憶良にもどるかたちになっていたとしても、右の仮説を改める必要はない。
 旅人の上京後、麻田陽春と憶良には、大伴熊凝の客死を悼む詠作(5・八八四〜八九一)があるが、旅人によって領導された、いわゆる筑紫歌壇は、事実上、この佐用姫の歌群で幕を閉じた。最後が、旅人にゆかりの深い大伴佐提比古(『日本書紀』では「狹手彦」)と、松浦佐用姫にまつわる主題であったことは、奇しき因縁というほかはない。憶良もそれを承知しつつ、餞宴での進呈を期して、惜別の情をこめたに相違なかろう。かくて、歌壇の終曲を飾るにふさわしい詠となった。

 以上、長々と引用したが、芳賀紀雄のこの推論は、「佐用姫歌群」を「憶良謹上歌」の内に含めて論じてその位置付けを明確にしている点や、前の三首と憶良作の二首の間には時期のずれがあったとする点など納得させられる事が多く、優れた論説であると思う。
タグ:万葉集
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2017年05月30日

『万葉集』を訓(よ)む(その1168)

 今回は875番歌を訓む。「松浦佐用姫の歌」五首のうちの五首目である。前歌(874番歌)の題詞に「最々後人追和二首」とあって、前歌と本歌の二首は、871番歌に「更に更に後の人が追和した」歌である。
 写本の異同は、4句四字目<苦>。これを『類聚古集』『紀州本』『西本願寺本』などいずれも、「古」とするが、『京都大学本』に「苦」とあるのを採る。原文は次の通り。

  由久布祢遠 布利等騰尾加祢
  伊加婆加利 故保斯<苦>阿利家武
  麻都良佐欲比賣

 本歌で使われている万葉仮名は次の通り。 片仮名・平仮名の字源となった常用音仮名では、カ音の「加」・ク音の「久」・ヒ(甲類)音の「比」・ホ音の「保」・ユ音の「由」・ラ音の「良」・リ音の「利」が使われている。片仮名の字源となった常用音仮名では、ア音の「阿」・イ音の「伊」が、平仮名の字源となった常用音仮名ではム音の「武」が使われている。その他の常用音仮名としては、ケ(甲類)音の「家」・サ音の「佐」・シ音の「斯」・ツ音の「都」・ト(乙類)音の「等」・ネ音の「祢」・バ音の「婆」・フ音の「布」・マ音の「麻」・メ(甲類)音の「賣」・ヨ(甲類)音の「欲」が使われ、準常用音仮名では、コ(甲類)音の「故」・ド(乙類)音の「騰」・ヲ音の「遠」が、音仮名では、ク音の「苦」・ミ(乙類)音の「尾」が使われている。

 1句「由久布祢遠」は「ゆくふねを」と訓む。「由久布祢」は、前歌2句に既出で「ゆくふね(行く船)」。「由久」は、カ行四段活用の自動詞「ゆく(行く)」(連体形)。「布祢」は、「ふね(船)」で、「水の上に浮かべ、人や荷物をのせて水上を渡航する交通機関。」をいう。「遠」は格助詞「を」。
 2句「布利等騰尾加祢」は「ふりとどみかね」と訓む。「布利」は、ラ行四段活用の他動詞「ふる(振る)」の連用形「ふり」。ここの「ふる」は、前歌の「ひれふらしけむ」を承けて詠っているので、「ひれ(領布)をふる」の意であることは言うまでもない。「等騰尾加祢」は、804番歌の17句「等々尾迦祢」及び805番歌5句の「等登尾可祢」と同じく、マ行上二段活用の他動詞「とどむ(留む)」の連用形「とどみ」+ナ行下二段活用「かぬ」の連用形「かね」=「とどみかね(留みかね)」を表す。この句について、井村『萬葉集全注』は、「○振り留みかね 領布を振って引き留めることができないで。留(とど)ムは、マ行上二段と下二段活用の両様有るが、ここは前者の連用形。ただし上二段の留ミの形は、集中三例(他に八〇四、八〇五)ともに憶良の作歌であり、注釈は憶良の古語使用癖の一例であると言っている。」と述べている。
 3句「伊加婆加利」は「いかばかり」と訓む。「いかばかり」は、副詞で、疑問文、推量文において、物事の状態、程度、分量などがはなはだしく重く、多いような場合、そのはなはだしさ、重さ、多さなどを疑い問い、推測する意を表わす。「どれほど。どんなにか。いったいどのくらい。」の意。
 4句「故保斯苦阿利家武」は「こほしくありけむ」と訓む。「故保斯苦」は、389番歌4句の「戀久」と同じで、シク活用形容詞「こほし」の連用形「こほしく(恋しく)」を表す。「こほし」は「こひし」の古形。「阿利」は、ラ行変格活用の自動詞「あり」(連用形)。「家武」は、過去推量の助動詞「けむ」(終止形)。前歌4句の「けむ」は連体形であったが、ここは終止形。
 5句「麻都良佐欲比賣」は「まつらさよひめ」と訓む。前歌5句と同句で、「まつらさよひめ(松浦佐用姫)」。大伴佐提比古(大伴金村の三男)の愛人で、伝説上の人物。
 875番歌の平仮名文及び漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  ゆくふねを ふりとどみかね 
  いかばかり こほしくありけむ
  まつらさよひめ

  行く船を 振り留みかね
  いかばかり 恋しくありけむ
  松浦佐用姫

  行く船を 領巾を振っても留めることができなくて
  どんなにか 恋しかったことだろう 
  松浦佐用姫は
タグ:万葉集
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